我には、五人の兄がいました。
 ある日、四人になりました。



 始まりの日があっという間ならば、終わりの日もあっという間だった。



 朝、いつも通りに片目を開いた彼は、違和感に気づく。
 その違和感がなにであるかはわからなかった。
 静かな、どこまでも静かな家。人が住んでいるか疑うほど音のないのも、埃などは多少積もっているが、質素というよりは、物が無さ過ぎる部屋も、いつも通り。
 窓から入る光が眩しくて、目を細める。
 普通であれば、ここで起き上がるなりしてカーテンをしめるところだが、彼には手足というものが存在しない。
 だから、眩しさを受け入れて、目を閉じる。
 もう少しすれば、兄がくるはずだ。
 そう考えたが、なぜか兄がこない。
 ちらっと時計を見れば、思ったよりも針が進んでいる。
 もしかして、兄は何か用事があって自分を置いていってしまったのだろうか。
 それは少し困る。
 手足もない彼は、自力で動くということができない。誰かに世話をされないと、そのまま餓死なりなんなり簡単にしてしまう存在なのだ。
 一応、いざというときの連絡手段はあるが、少々頼みの綱は遠いところに住んでいるし、病院や警察はできれば避けたい。
 いや、それよりも、今のこの自然を崩されるのが嫌だった。彼は変化を厭い、停滞を好む。

「兄上様……」

 いたとしても届くはずのない言葉を投げる。
 眩しさに目を閉じた。
 ああ、そういえば、あのカーテンを閉めてくれるのは、兄だったな。
 ぼんやりと、当たり前が崩れていく事に気づいた。
 遠くて、猫が悲しげに鳴いている。





「ろく、いるかい?」

 その声は、驚くほど近くで聞こえた。
 慌てて目を開けて、彼は自分がもう一度寝てしまったことに気づく。
 目の前には、兄が居た。
 ただし、彼の待つ兄ではなく、兄と仲のいい二番目の兄。
 二番目の兄は、なぜか真っ黒なスーツを着ていて、自分を抱き上げる。

「おはよう。お腹は減ってるかい?」

 首を横に振る。
 なぜここに二番目の兄がいるのだろう。
 おかしい。
 それは、とてもおかしいことだ。
 この家に一度だって他の兄弟がきたことはないのだ。
 そもそも、この二番目の兄と会ったのは何年ぶりだろう、覚えていない。日付など、気にしたことがなかったから。
 なぜなら、彼は兄に誘拐されてここにきたから。
 遠くに行く兄に合わせて外国に行く予定だった彼を、兄は誘拐してここにつれてきて、一緒に暮らした。
 他の兄弟との断絶には多少の違和感があったが、それよりも兄と離れる方がおかしい気がしたし、抵抗する手段も理由も無い。
 そんな生活の繰り返しであったのに。 

「なにかあったら今のうちにね、これから、家に帰るんだから」

 かえる?
 きょとんっと、彼は瞬きを繰り返す。
 なんだか、よくわからない。
 でも、今はそれよりも聞きたいことがあった。 

「兄上様は?」

 二番目の兄は、ひどくつらそうな顔をした。
 優しいいつもの表情が曇る。言うか言わないか、迷うような表情。
 それを誤魔化すように彼を呼ぶ。

「ろく」
「兄上様は?」
「ろく、落ち着いて」
「兄上様は?」
 
 繰り返す。
 表情はあまり変わらないが、彼も少し混乱していたのかもしれない。
 ひどく躊躇った後、二番目の兄は彼に告げた。 

「末は」

 二番目の兄が兄を呼ぶときに使う言葉。
 ゆっくりと、何度も溜息を挟みながら身を切るように言った。



「死んだよ」



 言葉の意味が理解できず、また、瞬きを繰り返す。
 痛切な二番目の兄の表情に、聞き返すことができない。
 いや、聞き返さなくてもすぐに飲み込めた。

 死ぬ。

 それは、彼の兄に対する最も遠いイメージだ。 
 そんな、大きな変化を、想像したこともない。
 物心ついたときから、傍らにいた兄。変わることのない兄。決して彼を手放さない兄。
 一生、そうだと思っていた。

「事故だったんだ」 

 なにかの用事で学校に呼び出された兄は、その途中で暴走したトラックに突っ込まれたという。
 トラックはその後、事故を起した場所が悪かったらしく、炎上、最初はそのせいで身元は不明だったらしいが、近くに飛んだカバンから兄の携帯やパソコン、学生証が見つかり家族のもとに連絡が行き、今に至ったという。
 潰された上に焼かれた死体はとても見られたものではないらしい。
 妙に冷静な頭で、彼はならば、二番目の兄の服は喪服なのだろう。
 家族で最も兄弟を愛した二番目の兄。
 どれだけ辛いだろうか。
 いまいち想像できず、顔を見つめる。
 現実感はなかった。夢の中にいるような気がして、でも、目が覚めていることはわかっている。

 兄は、死んだ。

 それだけだ。
 大きな変化。
 日常の崩壊。 
 けれど、それもまた、日常に組み込まれるのだ。 
 兄がいないことは当たり前になるだけ。

「ろく」

 二番目の兄が呼ぶ。
 泣いているのかと思ったが、違った。

「悲しんでもいいんだよ?」

 悲しむ。
 彼はまた、瞬きを繰り返す。
 不思議で不思議でたまらないとでも言うように口を開いた。


「なぜ、悲しむのですか?」


 問うた返事は帰ってこなかった。
 猫の声はしなかった。





 葬式はあっという間に終わり、また、他の兄弟と暮らすようになった。
 兄弟は相変わらずで、時折、兄の喪失に変化を見せるものの、それもすぐに日常となる。
 彼は、相変わらず、きょとんっとしていた。
 兄弟たちが大丈夫かと声をかけてきたときも、葬式の顔も見れない死体を送り出したときも、それから、兄のいない生活を送っても。
 やはり、現実感がない。
 それが喪失感だと気づいたのは、長男の勧めで外国に行ったときだった。
 大きく日常が変動したのに、兄が死んだときのような感覚を得なかったからだ。
 つまりは、そういった感覚が、二番目の兄の言っていた悲しむという感覚なのだろう。
 でも、悲しいというのはわからない。
 もう、兄の姿をみることはない。もう、兄は自分に声をかけることはない。もう、兄が自分に触れることはない。
 考えてみれば、あまりいい兄ではなかったと思う。だから、居なくなっても平気だと思うのだろうか。これが二番目の兄ならば、悲しめるのだろうか。
 嫌などと考えたこともなかったが、彼は兄に法律的に言えば犯罪とも言えることを散々されてきたのだ。
 けれど、兄がいないのは、手足がないようなものだった。しかし、手足などは物心つく前からないのだから、今更どうこう言う問題でもない。
 ただ、一つだけ、これは次男のすすめであったが、義手と義足をつけるのはなんだかいやだっと、思えた。けれど、口に出すほどのことではなかったのでやめた。
 偽の手足は歩けないくせに重くて、邪魔だったが、これはこれで便利なこともある。
 
(六の弟、お前は歩きたいか?)

 ぶらぶらっと、車椅子の上、義足を揺らす。
 いつか兄が問うた言葉。
 あまり疑問系で喋ることのない兄の、珍しい口調。
 最近、よく兄のことを思い出す。それは、自分が兄と同い年になったからだろう。
 だが、考えることと、覚えることは苦手だからそれは同じ場所の繰り返し。
 あれだけ長く傍にいた兄のこともあまり覚えていない。
 二番目の兄はそれを「なんらかの自己防衛」だと言ったが、興味はなかった。
 今日は天気がいい。
 彼は空を見上げる。
 後ろで、彼の四番目の兄が飲み物を買いに行くと走っていく。
 一人で動けない自分は待つしかない。
 そういえば、あの問いに自分はなんと答えただろう。
 彼がそう思った瞬間だった。

 ふっと、視界が暗くなる。

 真昼の公園の真ん中で。
 何が起きたか理解する間もなく、思考は停止した。
 




「生きてるかい、私の愛しい六番目」




 目覚めると、人外のごとく美しい男が笑っていた。
 一瞬、兄かと思ったが、兄はまだこんな年ではないし、笑顔がこれほどうまくない。
 他の兄弟は、まだ人間味のある顔をしているため、違う。
 だから、父だろう、そう判断する。何年ぶりだとか、そんな単位でではない、十何年ぶりの父。
 父は彼の前で手をひらひらさせ、目が手を追うことに気づいて手を止めた。

「気分は」
「……?」
「気分はどうだい」

 父が、そうっと、右目と手足をさす。
 存在しない部分ばかり指差すので、不思議でしかたない。
 もしかしたら、生まれて初めて言葉を交わしたかもしれない父の思考は読めなかった。
 ぼんやりとした体に、ひどい、違和感。
 なんだかわからず、首を起す。
 視界もなんだかおかしい。くらくらして、どっちが上で、どっちが右だかもわからない。
 ぐっと、地面を抑えた。

「なるほど、さすが」

 そこで、ひどい違和感の正体に気づいた。
 手が、ある。
 手だけではない、その延長線上の腕が、肘が、二の腕がある。しかも、両方。
 義手ではない、しっかりと動いて感覚がある、冷たさや体温まで感じられる褐色の生々しい腕。力の入れ方がわからず、手が痛む。
 けれど、起き上がる。
 無理矢理、こけそうになりながら、足を見た。足もある。足は、少しだけ残った部分を動かしていたせいか、思ったより動く。
 さすがの彼も混乱していた。
 継ぎ目もなにもない、生まれたときからそこにあったような手足。
 けれど、力の入れ方がわからず、うまく扱えないことが、それらが彼の持ち物でなかったことを告げている。
 訳がわからないと視線を父に向けた。
 ああ、そうか、視界が安定しないのは、右目もあるからか。
 父は笑っている。

「パーフェクト」

 少々芝居がかった声と仕草で父が手を叩く。
 何も教えず、はぐらかすように笑うだけ。

「愛しい六番目。どうだい、手足の調子は、気分は?
 最高だろ? ずっとほしかった手足だ。お前の、偽者ではない本物の、嬉しいだろ?」

 反応できずに戸惑っていると、その肩をぽんっと叩いた。

「気持ちよく受け取っておきなさい。お前のために、あの三番目が死んでまで開発した代償だからね」 
「兄上様は、我のためになど、動かない」
「ところがどっこい、動いたんだよ。
 お前は知らなかったが、あいつが進路を決めたのも、勉強してたのも、お前のせいなんだよ。
 お前の一言で、お前のせいで、全部動いた。あの自分勝手で兄貴の言うことは聞くだけ聞いて動かない奴が。動けない奴が。
 やっばい橋渡るどころか片っ端から壊して突き進んだんだ。美談だね」

 楽しげに、笑う。

「いわば、お前のせいであいつは死んだわけだから。お前のせいで、だから、喜んでおきなさい」

 彼は、なぜ兄弟の誰もが父を嫌うのか、わかったような気がした。





 父は、ただ、家まで送るとうすっぺらな封筒を渡した。
 中には、紙が一枚。

「命が惜しくないなら、見なさい」

 聞いた瞬間、破ろうとした。
 力の上手く入らない手で何度も失敗しながら、破って、少し疲れて座りこむ。
 この足では、まだ立っているのがやっとで歩けそうにない。
 とにかく、中を見た。
 見て、たった数行の文字列を追う。
 長年の違和感が、すっと胸から遠ざかった。





「いいのかい、会わなくて」

 人外の如く美しい男の隣に、そっくりと言ってもいいほど美しい青年が座っていた。
 青年は、表情を一つも動かさず、手に持っている紙切れを見ていた。

「会いました」
「まあ、そうだな」
「成長も予測の範囲内です、問題はありませんでした」
「ああ、完璧だった。全ては正常に作動していたし、つけられて2時間半とは思えない動きを見せた」
「ええ、少々計算違いもありましたが、今はあれが完璧です」

 平坦な声に、つまらなそうに男は呟く。

「……あの手足の為に、お前はいくつの禁忌を超えた?」
「さあ、2,3個越えた辺りで、周りはもうやめろと言わなくなったので」

 まったく、揺れない。

「まったく、そういうところは本当に我に似たな。クローン、ナノマシン、人体実験……もう少し大人しくやっていれば、死なずにすんだのに」
「時間がかかるのは、嫌いです」
「嘘をつくな。その気になれば何万年も待てるだろう」
「何万年も生きられません」
「本当に、お前は兄弟の中で一番かわいくないな、愛しい三番目」
「ありがとうございます」

 つまらないと、笑いながら男は視線を窓の外に向けた。
 そこには、青い空と白い雲が下に広がっている。

「いつまで弟の写真見てるんだ、このむっつり」
「貴方の顔を見ていると、飛行機を爆破したくなるので」





「本当にいくのかい、ろく?」

 止める気のない二番目の兄が、トランクを抱えた彼に問いかける。
 彼は、振り向いて頷く。

「少し行って、帰ってきます」
「末は、少しじゃみつからないよ」
「かまいません」
 


(六の弟、お前は歩きたいか?)



「我は、歩きたいだけですから」

 二番目の兄が笑う。

「じゃあ、行っておいで、兄貴やシイが起きる前に」
「いってきます」

 軽く頭を下げ、歩き出す。
 ポケットの中、一枚の紙を取り出した。
 そこには、一人の無表情な青年と、数行の文字が刻まれている。
 
「別に、会いたいわけではありません」

 歩きたいだけです。


(そうか)



 っと、答える声は無い。































 少しだけ、歩きました。


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