なにが起きているんだろうか。

「ネクロ」

 そもそも、ここはどこなのだろうか。
 というか、自分は誰だ。
 なんでここにいるのだっただろうか。

「ネクロ」

 ああ、俺は――うわああああああああ。
 ネクロは発狂しそうになる精神を現実逃避することで守った。
 自分の目的である、全てを忘れてでも、その恐怖から逃げたい。
 なんだこれ、なんだこれ、なんだこれ。
 甘い美声が、耳から鼓膜を突き抜けて脳髄に突き刺さる。

「どうした、ネクロ、最高におもしい顔をして」

 普段の彼の、見下すような冷たい目線は、嫌いだった。
 なじり、罵ることしかしない口が、嫌いだった。
 傷つけるためだけに伸ばされる手が、嫌いだった。
 そもそも、彼という存在が、生まれたときから大嫌いだった。
 けれど。

「うっあ……」

 ガチガチと歯が鳴る。
 目尻に、涙がたまり、顔が引きつってとまらない。
 じわりっと、耳に、後頭部に伝わる熱が気持ち悪かった。
 彼の、膝の感触と存在が厭わしい。
 髪に繊細に触れてくる指が怖かった。
 優しげな眼差しが不快だった。 
 しかし、なによりも普段は滅多に呼ばない癖に、蕩けるように優しい睦言のような3文字を耳元で囁かれるのが、たまらなく恐ろしい。
 これならば、見下され、罵られ、傷つけられた方が何倍も心が安らかでいられるのに。
 せめて、幻覚であってくれと祈る。
 でないと、心が折れてしまう、と。

「ネクロ」
「ひっ……」

 ゆるやかに、指がアゴから首へと伝う。
 首を絞められるのかと一瞬身構えたが、違った。
 まるで、猫をかわいがるようにアゴの下や首を撫でるだけで。
 ゆるりとした刺激は、くすぐったさとともに微妙な感覚を生み出すが、それに集中できないほど怯えていた。
 そして、手が、敏感な羽をも、さらりと撫でる。
 これには、一瞬、体が跳ねたが、それを処理しきれない。

「ゆぅ、ゆるして……」

 乱れる声で、やっとそうこうた。
 膝から逃げようと体を動かすが、体を捕まえられ、抱き寄せられる。
 その腕も、力は篭っているものの、無理矢理という感じではないから、また本能的な拒絶が湧き上がる。

「どうした、ネクロ?」
「うゃ……!! やめろ!!」

 逃げようとしたのに、怒る様子はない。
 どころか、にこやかに笑って顔を覗き込んでくる。
 思わず、唇を噛んだ。
 そうしていないと、発狂してしまうと確信できた。
 いや、唇だけでは足りないと、腕に爪をたてる。鋭い爪は、たやすく皮膚に突き刺さり、引き裂く。
 どれだけ傷つけてもどうせすぐ治るのだ。遠慮はいらないとばかりに赤い線を引いていく。
 微量な痛みが精神を安定させた。

「も、やめて、くれ……ゆるして……」

 ついに痛みも手伝ってぼろぼろと涙が零れた。
 許しをこう言葉を繰り返し、必死に逃げようと体をくねらす。
 視界が滲んだおかげで彼の顔を見ずに済み、少し恐怖も和らいだかと思えば、ぎゅっと、手首を掴まれる。
 そのまま、少しだけ力の入った腕が、爪を外し、持ち上げられる。
 ちゅっと、突然柔らかい部分に手が触れた。

「ぎゃっ」

 それなのに、まるで焼印を押されたような低い悲鳴があがる。
 指先に、何度も柔らかい感触があたった。

「う、わ、やめ、やめろ!!」

 滲む視界の中で自分の手が好き勝手にされている。
 そう、まるで慈しむように、血と肉のついた指を舐め、口付けられた。
 ぞぞぞっと走る悪寒。ふつふつと全身に鳥肌がたつ。
 ちろりと舐められた指先が、柔らかく湿った感触に包まれた。
 一瞬噛み千切られるのかと錯覚したが、違う。指の背を、くすぐられ、ちゅっと、吸われる。

「ひぃ!!」

 なんだ、なんなんだ、この生き物は。
 心の中で、相手を別の生き物のように扱うことで、平穏を保とうとするが、傷に舌をはわされたところで崩壊する。
 ゆるゆると、治りかけの皮膚の上を舌がなぞっていく。
 抉るようではなく、獣が傷を治すために舐めるように。
 それも、すぐにねっとりと愛撫するように変わっていく。

「あう、う、ぐ、ぎゃあああああああああ!!」

 怖気が我慢できず悲鳴をあげる。
 びたんびたんと狂ったように暴れ、なんとか膝の上から脱出した。
 口からは謎の言語が溢れ出る。
 頭を抑え、かきむしった。
 今まで、彼に触れていた部分は気持ち悪いとばかりに。

「そこまでされると、傷つくぜ?」

 背後で聞こえる声を無視。
 舐められた部分に再度爪をたてた。
 皮膚をごっそり剥ぎ、付け替えたくてたまらない。

「ひっぐ、ふぇ……」

 腕を血塗れにし、喉が痛くなるまで叫ぶと、少しだけ落ち着き、彼をにらみつけた。
 艶然と微笑み、楽しそうに見ている。
 それこそが、いつもの彼だった。
 苛立ちと同時に安堵を覚えてしまう自分が嫌だったが、それでも、もうあれほどの恐怖を感じない。

「な、なにしやがる……」
「たまには、優しくしてやろうと思ってな」

 思った以上に楽しかったと、告げる。
 くくっと、笑い声が漏れた。

「あれくらいおもしろいものが見れるなら、たまには優しくするのも悪くないな」
「やっやめやがれ!!」
「なんだ、優しくしてやろうと言うのに……ああ、そうか、お前はマゾだからな……痛くされたいのか?
 そんな風に自分の腕もめちゃくちゃにするくらいだからな」
「マゾじゃねえ!! この腕は誰のせいだと思ってんだ!!」
「じゃあ、優しくしてやろうか? ほら、舐めてやるぜ?」
「ぜってえ断る!! 舐めるな!! 次やりやがったら殺してやる!!」
「できもしないことはいうもんじゃないぜ?」

 ふーっと、獣のように威嚇するのを見ながら、もう一度笑い声を漏らす。

「まったく、優しくしてやるというのに」

 ふっと、立ち上がる。
 膝をぽんぽんっとはたき、一歩近づいた。

「なっなんだよ!!」

 思わず、ずりっと、下がる。
 だが、彼はその分をすぐさま埋めた。

「そんなに」

 笑ったまま、一歩づつ近づいていく。
 しかし笑みは、どこまでも、永久凍土の如く冷たい。
 膝にのせていたときとは、180度は違う、それこそ、彼によく似合う笑顔だった。
 そんな笑顔を見せる時、彼がどんなことをするか、知っている。

「ちっちかづくな!!」

 冷や汗が、じわりと浮かぶ。
 立ち上がろうとするのに、立ち上がれない。

「ぐっ……」

 肩を、掴まれる。
 その手は、痛いほど肩に食い込んだ。

「いた、やめ、っぁ!?」

 逃げようとする足に、踵が突き刺さった。
 痛くてびぐっと、体をそらす。
 だが、足を踏まれているせいで逃げられない。どころか、よけいにぐりぐりと踏みにじられた。

「が、ぃっあ……!!」

 そのまま、ぐいっと顔を近づけ、ゆっくりと、彼は告げた。



「そんなに痛いのを期待されたら、答えないとな」



 してねえ!!
 っと、叫んだ声は虚しかった。


 ばんねく、優しくいじめる、でした!
 嫌がらせ的に優しくして楽しむ番人様と、全力で拒絶するネクロ。
 色々追加した方なんですが、短いですね……。



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