※場合によっては気分が悪くなる話です。不幸な天音ちゃんがいます。
幸せになれません。
獏良天音が長いこと片思いだった少年と手を繋いだのは最近のことである。
誰が見ても両想いだったというのに、素直ではない上に鈍感な二人は本当に、本当に、本当に長い時間をかけ、お膳立てにお膳立てを重ねてやっと手を繋いだ。
ただ、今までずっと我慢していたせいだろうか、たったそれだけのことなのに二人の距離は急速に近づき、今では賭けまで始まっている。
周囲のコメントを求める声に、シスコン代表だった兄も、さすがに苦笑しながら祝福した。
「うーん、もう許すしかないよね。色々やってみたけど、結局当人同士のことだし……。彼はともかく、妹には幸せになる権利があるしね。
でも、告白はまだまだ先になりそうだな……だって、二人とも素直じゃないし……。だけど、口より先に手が出ちゃうからそっちの方が心配だな。
できちゃった婚約なんかしたらとりあえず、殺すかな?」
周囲の熱が加速する中、ただ、少しだけ、少しだけ兄は心配そうな顔をした。
それはたった一人の友人しか気づかぬほど、些細な心配だった。
心配は、突然やってくる。
いや、徐々に狂っていたものが、今、表に出ただけとも言えた。
獏良天音は、泣いていた。
声を押し殺し、震えながら頭を抱えて泣いている。
兄の声にもまったく耳を貸さず、ただいやいやと首を振った。その瞳にはありありと恐怖が焼き付けられ追い詰められたかのようにびっしょりと汗が伝っている。
「天音! 天音! 天音!! どうしたの!! 返事して!!」
軽く揺さぶってみるものの、その手もすぐ振り払われた。
シーツに包まり、泣き続ける妹に兄はとにかく声をかけ続ける。声が届くように、これ以上妹が泣かないように。
獏良天音が泣き出したのは、家に転がるように飛び込んできてすぐだった。髪も乱れたまま、絶句する兄をおいて部屋に逃げ込んだ後から、ずっとこの状態である。
「天音! 彼が何かしたの!?」
びくんっと、大きく天音の身体が震えた。震えが強くなり、押し殺していたはずの嗚咽が漏れる。
兄はその身体をシーツ越しに抱きつきながら言葉を続ける。
「ケンカじゃないよね。いったいどうしたの!! ねえ、どうしたの!!」
もしも、彼が妹になにかしたならば、殺してやると兄は思った。
見かけや振る舞いより脆い妹が泣くことはそれほど珍しいことではない。だが、これは違う。あまりにも、異質だった。おかしい。何かの、違和感。
何度呼びかけを繰り返しても天音は答えなかった。
「お願いだよ……天音……僕にも……話して……」
抱きしめる手に力を込めたとき、天音が何か呟いているのに気づいた。
低い、まるで天音のものではないような低い声で、ぶつぶつと繰り返している。途中で嗚咽や涙で濁り引きつっているが、それは形を作っていた。
それを理解した瞬間、兄の心と身体が冷え、強張ったのを覚える。
思わず、頭を抑えた。
「まだ」
兄は悲哀と絶望をこめ、自分も泣きそうな声で呟いた。
「また、だめなんだ」
(幸せになりたい幸せになりたい幸せになりたい幸せになりたい幸せになりたい幸せになりたい幸せになりたい幸せになりたい幸せになりたい幸せになりたい幸せになりたい
幸せになりたくない幸せになりたくない幸せになりたくない幸せになりたくない幸せになりたくない幸せになりたくない幸せになりたくない幸せになりたくない幸せになりたくない
幸せに、なれない、幸せになっては、いけない)
シーツの隙間から見た天音の瞳には恐怖の中にどこか凶暴な色がある。すぐさま自分で喉を掻っ切ってしまいそうなほど弱弱しいというのに、今すぐ誰かの喉笛を噛み千切りそうなほど激しい。
その相反した二つの感情を抑えながら、天音は泣きつづける。
ごめんなさい。
っと、天音は言った。
誰に言っているのか、兄には理解できない。
ただ、ごめんなさいと繰り返される。
「天音……」
呟きに、天音は起き上がった。
涙でぐしゃぐしゃに歪んだ顔を、兄の胸に押し付け、呟く。
「きょ、今日」
「うん」
「きす、された」
「うん」
「うれしかった」
「うん」
「でも、でも、だめ」
「うん」
「わたしは、おれさまは、しあわせになっちゃだめ」
「そんな、ことないよ」
「なっちゃ、だめなんだ……」
「そんな、ことないよ。天音」
「なっては、いけないんだ……だって、前も、その前も前も、ずっと、前も、俺様は幸せなんかじゃなかった。
幸せになれなかった。なってはいけなかったんだ。
だって、俺様は何も果たせなかった。だめだった。何一つ。
復讐も愛もどちらも、俺様はとれなかったんだ。だから、」
(幸せになりたい、幸せになりたくない、幸せになれない、幸せになってはいけない)
ずるりと、何かが妹を連れて行くのが兄にはわかった。
それは幻で幻覚で錯覚で過去で記憶で執念で妄執で復讐で因縁で因果で宿命で宿業で罪で罰。
兄は妹の頭を何度も撫で、子守唄のように呟いた。
「天音、天音、お前には幸せになってほしかったんだ。幸せになる権利があると思ったんだ。
だって、お前は何一つ前のことは覚えていなくて、囚われていなくて、ただ彼に少しだけ執着してるだけだと思ったから。
お前なら断ち切れると思ったんだ。でも、だめだったんだね。
かわいそうな子、かわいそうなお前、かわいそうな。バクラ」
なんで、ただ好きなだけじゃだめなんだ。
なんで、愛は人を救わないのだろう。
なんで、お前だったんだろうね。
なんで、幸せになれないのか。
兄は知っていた。
ずっと妹が幸せになればなるほど不安な顔をしていたことを。
ずっと妹が幸せになればなるほど不安定になっていたことを。
ずっと妹が幸せになればなるほどその瞳が虚ろになることを。
気のせいだと思い込みたかった。
幸せになってほしかった。
目を閉じて耳を塞ぎ口を縫い付けてでも、幸せになってほしかったのに。
それから、天音はおかしくなった。
いや、もっと以前からおかしかったのだろう。
幼馴染の少年を避けるようになり、笑うことも少なくなった。
どういうことだとさりげなく聞き出そうとする友人たちを兄は遮って、妹とともにいる。
時折、幼馴染の少年が問うような視線で見ていたが、それも無視された。
そして、ある日、天音は他の男と付き合うと言い出した。
そうしてようやく、やっと、天音は笑えるようになる。かりそめのように以前と変わらない表情をするようになった。
幼馴染の少年に笑って恋人の自慢をする。兄は何も言わなかった。
誰もが訳がわからないという顔をする中で、ただ、少女だけが笑う。
けれど、すぐにそれも壊れた。
男と天音が別れたという。
それを知る人は言った。
「俺は、他の男を思う女に騙される気はない」
っと、言われたらしい。
天音はいつも通りだった。困ったっと言うだけ。
表面だけは、湖のように静かだった。いつも通り過ぎるほど、いつも通り。
このまま変わらなければ平穏だとでも言うように。
「でも、獏良くん、このままなんて無理だよ」
「そうだね」
「でも、僕らにはなにもできないんだよね」
「そうだね」
「いつだって、そうだったよね、前だって」
それから、天音が飛び降り未遂を起した。
原因は、わからないとされているが、当人たちは知っている。
とても、些細で重大なこと。
幼馴染の少年が告白した。
それだけ、っと言えばそれだけで。
しかし、とてつもなく、それこそ天音にとっては天と地をひっくり返したような衝撃だった。だから、飛び降りようとしたのだ。
嬉しいと泣いたのに。幸せだったと呟いたのに。ごめんなさいと、そう言った。
なんとかそれは止められたものの、天音の崩壊は止められなかった。
あまりにも不安定で、常に怯え、壊れてしまったかのように、いつ泣き出すか、いつ衝動的に自分を傷つけるかわからない。
時折、幼馴染の少年が近づくだけで叫びだすこともあった。
どうしようもなかった。
誰も何も出来なかった。
「了」
だからこそ、誰もそれを責められない。
「了、俺幸せ」
体中に巻かれた包帯。
白い肌に所狭しと並ぶ痣。
白い眼帯をつけた天音は、うっとりと夢見るように笑った。
「だって、傍にいられるから」
天音が長袖を着られなくなった時、やっと、天音の崩壊は止まった。
ある朝、天音が前のように笑って現れた時、その顔には大きな痣があったという。
決して、自分でつけられる痣ではなかった。
兄は何も言わなかった。幼馴染の少年も、ただ自分の拳を見つめて泣きそうな顔をしただけ。
ただ、誰もが、その瞬間、新しい形が出来上がってしまったのだと確信しただけ。
「だから、アテムが俺を殴ったり蹴ったりしてくれてもいいんだ。
ううん、むしろ、してほしい」
そうして、今日も天音は幸せになるために、痣を増やすのだ。
幸せに、なれました?
う……鬱い……。
なんという後味の悪い、悪すぎるふいんき(なぜか変換できない/ネタ)小説でしょうか!!
しかし、書いてる本人はとても楽しくやってます。
不安定+幸せになれない+DV……なんという不幸坂、これは間違いなく90度。落下型。
一応、記憶無しの天音ちゃんですが、何かは魂が知っているようです。
そして、王様はわざと殴ったわけではなく、落ち着けようとして思わず手をあげてしまったら、天音ちゃんに「これだ」って感じに幸せそうに笑われたので、もうこれしかないと思いつめてしまいました。
ちなみに、あえて、天音と妹を混ぜてるのはわざとです。読みにくくてすみません。