「シャマル、簡単なことだろ?」
そう言って、神の名を持つ悪魔は艶然と微笑むのだ。
「ごく、ごく簡単なことだ、シャマル。てめえにできないことが俺にはできる。ただそれだけだ」
わずかにいつもより声のトーンがあげて悪魔は言う。
甘い、甘い言葉だった。
悪魔が人間を誘惑する時のような、脳に届けば痺れさせ、正常な判断を鈍らせる声。
「そして、てめえは俺に対しての切り札とそれに相応する対価たる掛け金も持っている。
それだけのことなのに、なんでてめえはわかんねえんだ?
いや、わかってんだろ、本当は。でも、迷ってる。躊躇ってる。
そりゃそうだ。俺を知ってる人間ならばそんな駆け引きをしようだなんて思わないよな。
でも、シャマルてめえはそれでもしなきゃなねえんだろ?」
ゆるりと完璧なバランスで整った唇を吊り上げて見下ろす男に告げる。
開いた口から覗く赤い舌が、更に男を追い詰める。
「だから、大嫌いな俺の前まできたんだろ?」
そうだ、っと男は思う。
男は、悪魔の本性を知っていた。思考も性格も知っていた。知っているのに、きた。
駆け引きをする為に、同時に、取引をする為に。
それは、正常な人間ならば絶対にしない、愚かな行為。
たった一杯の水の為に魂を売り渡すようなものだ。
しかし、そのたった一杯の水が差し出されたのが、砂漠のど真ん中だたらどうだろうか。
まず、間違いなく手を伸ばす。
そう、今、男は正常ではなかった。砂漠の真ん中にいるのだ。
それでも、迷う。
なんと言っても、差し出されたたった一杯の水は劇薬なのだから。
「たく、そんなに睨むなよ。そんなに女を助けてえのか?」
だったら迷うなよ。
っと、悪魔は囁く。
わざとらしくゆったり喋りながらさっきまでの楽しそうな笑顔を一転してつまらなそうに目をそらした。
男は、これが演技だと知っている。
今、悪魔は楽しくて楽しくて、いや、本当は本当には楽しくないのかもしれないが、喜んでいるのだ。なんと言っても、罠をしかける前に獲物が檻に飛び込んできたのだから。
「別に、俺はどうでもいいんだぜ?
名前も顔も知らねえし、関係もねえ。
女が死んで悲しむてめえを見るだけでもおもしろそうだしよ。そもそも俺には人助けなんか向いてねえのはわかってんだろ?
てめえにとっても別に血が繋がってるとか、恋人って訳じゃねえんだから、迷うならほっときゃいいだろ」
淡々と冷たい声。
それは、悪魔の本音。
それでもいいと本気で思っている。
例え、悪魔がその女の顔を知っていても、名前を知っていても同じことを思い言うだろう。
男はかっと頭に血を上るのを感じた。
つかみ掛かって、殴ってしまいたい。
確かに、悪魔の言うとおり、男の助けたい女は男にとって血縁者でも恋人でもない。しかし、それでも、助けたい。
「助けたいなら躊躇うなよ。
カードを切れ、シャマル」
「……っ」
男は歯噛みする。
そう、言葉は喉元まで出掛かっていた。
少しでも口を開けばその言葉は溢れ出す。
「そうやって躊躇えば、女は死ぬぜ?」
引き金が、引かれた。
「……テュール……」
「なんだ、シャマル」
「……頼みたいことがある」
「それで?」
「一人、女性を助けてほしい」
「それで?」
「俺にはできない、だから」
「そうか、それで」
「頼む」
「それで?」
尊大なまでの不適さで、悪魔は問う。
「それで、と聞いているんだシャマル。
俺がなぜ、知らない女を助けなければいけない?
俺が助けたところでなんになる?
俺にどんな得がある?
なあ、シャマル。俺はまだてめえの切り札を聞いてない。
ちゃんと、揃えて見せてみろ、てめえの賭け金を」
「じゃねえと、女が死ぬぜ?」
男は、苦々しい顔で口を開いた。
搾り出した声は掠れている。
何時の間にか握り締めていた拳に汗が滲んでいた。
足が、震える。
「なんでも、する」
吐き出した契約の言葉。
「俺にできることならなんでもする。ああ、命だろうが体だろうが捧げてやるよ。お前の望み通り、俺の切り札は俺だ。俺の賭け金は俺だ。
だから、彼女を、助けてくれ」
「assunto!!」
悪魔は男の魂に手をかける。
同時に、引きだしから素早く書類を取り出すと男へ放りつけた。
驚きながらも受け取った男はそれの内容を見て瞳を驚愕へと歪める。
「おっおい、これ……」
「てめえの助けたい女はそいつだろ?」
「なっ……」
「勘違いすんな。今回のことは俺は一切手を下してない。俺がしたことはただてめえの女を調べただけ。
それくらいの資料でよければてめえの恋人全員分用意できるぜ?」
にやにや笑いながら悪魔は立ち上がる。
その手にもつのは鈍い光を放つ刃だった。
そして、男の前まで迫るとその耳元で囁く。
「手がかりも心当たりにももう手は回してやった。
後は俺が乗り込むだけだ」
「……!?」
「てめえがうじうじ考えてたら女が死んじまうだろ?」
「……お前……俺がここにくること……」
「意外と前から知ってたぜ」
「このっ!」
「はっ考えてみろよ、ファミリーに属してないてめえが頼める相手なんて限られてる上にこの女の背景はそれなり以上の実力が必要だ。
仲良しこよしの家光はまだファミリー内で地位が固まってねえからこういうドンパチは今は無理だ。家光にぜってえ頼めねえとしたら、簡単だろ?」
「………………悪魔…………」
「褒めんなよ」
軽やかな動きで悪魔は男の隣を通り過ぎると振り返る。
「そうそう、てめえが行った言葉忘れんな」
獲物を絡めとった悪魔は歌うように呟く。
それは、男の心に深く深く突き刺さった。
「俺の望みは簡単だ」
血の匂いをまとわせて、契約を果たした悪魔は笑う。
ぽっかりと虚空に開いた穴のような黒い瞳が男を捉える。
その白い髪には返り血らしい黒がこびりつき、肌には返り血をこすったのか掠れた痕があった。
戦場からそのまま抜け出た姿で、何一つ飾ろうとも取り繕うともせず、むしろ、誇らしげに。
なすすべもなく男は、そこに立っていた。
悪魔の契約を果たす為に。
そう、男の目の前で女は救われた。
何一つ、文句はない。
ケチのつけようもないほど完璧に終わらせた。
障害を殲滅し、情報を統制し、何もかも、望みのままに。
意外なことに悪魔の女の扱いは丁寧で、その後まで保障するという考えられない破格の対応までした。
にこりとはりつけたような笑みであるにも関わらず美しい笑顔まで女に向けて。
だから、男は何も言わなかった。
誤魔化すことも茶化すことも逃げることもせず。
例え、殺されろという命令すら受け入れるつもりで、そこに立っていた。
ぞっとするほど美しいという表現は、この悪魔に使うのだろうと思いながら。
「俺から逃げるな」
その口から出た言葉は、意外な響きを持って飛び出た。
男は、一瞬意味がわからず目を見開く。
「俺から逃げんなシャマル。
別に追いかけっこで逃げんなとか、殺されろとかそういう意味じゃねえ。
俺から本気で逃げようとするな。俺から本気で身を隠そうとするな。俺を避けるな。家光とか、ファミリーとか俺とてめえの地位とか立場を言い訳にすんな。
あー……もっと簡単に言うならな。とりあえず、一ヶ月に一度は定期報告いれろ、一年に一度は……できればもっと会いにこい」
「はあ……?」
淡々と呟かれる言葉は、男の心にどんどん違和感をつもらせる。
なんだか、執着心の強い女のような口ぶりだった。
イメージが、合わない。
悪魔は、それはそれは残虐非道で、冷酷で、嫌なやつだった筈なのに。
甘いのではないか。
そんな言葉が、過ぎる。
「何間抜けヅラしてんだ、シャマル俺はな」
ぽかんっと顔が緩んでいく男に対し、悪魔は笑った。
「てめえを支配させろって言ってんだぜ?」
男を、時間を、縛らせろという。
男は、少しだけ、悪魔の言う言葉を重く感じた。
そうだ。
つまりは、悪魔が怖くなった時、離れたいと思ったとき、その契約があれば男は逃げられない。
今まで、男は本気で逃げようなんて思ったことはなかった。
それこそ、昔は死に物狂いだったが、今は違う。
悪魔は自分を本気で殺しはしない。そして、男の友人と悪魔に繋がりがあるゆえに、逃げなかった。
そう、それでも、本気で、ありとあらゆる手段を使えば悪魔から逃げられた。
鎖を繋がれた悪魔は規制が多い。
例えば、男の友人と距離をおけば、あるいは国外にでも逃げてしまえば、または逃し屋に頼めばいい。
しかし、さっきの条件を飲めば、それはできない。
「これはよ、契約書も証人もない、ただの口約束だ。
てめえが裏切らない保障もねえ。だからこそ、てめえを縛るぜ」
裏切れば、軽くなる。
男の決心も、女の価値も。
その程度のものだったのかと。
人質は男の良心と誠意と誇りだ。
悪魔に最も似合わない言葉だと男は苦笑した。
「俺から逃げんな、シャマル」
悪魔はそう言って男を捕えた。
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