彼は、血まみれの男にゆっくりと近づくと、その傍らに座った。
ぴちゃりと男から流れた血に服や長いコートの裾が汚れるのに構わず微笑んだ。
その笑顔はとても美しく、その場にふさわしくなかった。
本当に、楽しいと、抑え切れない喜びを表している。
目の前の男はすでに致死量に届く程出血し、息も絶え絶えだというのに。
「終わりか?」
美しい声だった。
やはり、その場にそぐわない明るく美しい声。
それは、彼の表情とはぴったり符合している。
「終わりか、シャマル」
男の顔を覗きこむその白い髪が揺れる。
さらさらと揺れながら、男の血まみれの顔に迫る白髪に、男は微かに瞬きをし、顔を歪めた。
「なんだ、その顔は、美女じゃねえから不満か?
美女よりも俺の方がキレイな顔してんだ。諦めろ」
声と顔とは裏腹に荒れた口調で、彼は男に告げる。
男は何も言わない。
むしろ、言えなかった。
すでに何かを言えるほどの自由も、考えられるほどの気力もない。
ただ、彼への皮肉の為だけに笑って見せた。
それは、すでに笑みにはならなかったが、彼はそれを笑みだと見抜く。
「終わりだな」
あっさりと、笑顔のまま無感情に切り捨てた。
そこには、悲しみも嘆きも鎮魂もない。
ただ、ありのまま笑っていた。
楽しそうに、別に、楽しくもなさそうに。
「なあ、シャマル。どうせ最後なら、白状しとけ」
白い指が、男の顔を撫でた。
すでにあまり感覚のない男には触られたことすらわからなかったかもしれない。
頬についた血が、彼の指を赤く染める。
そのまま、彼はその指を口に含んだ。
特に、何も感じていない顔で血を舐めとると、その手をあごにあてる。
「なあ、実は俺のこと、好きだっただろ」
微かに、まさか、とでも言うように男の唇が動いた気がした。
声にならない声を表すかのように、目が見開かれる。
「じゃあ、俺は最後だから言ってやる。冥土の土産にしろよ。
なあ、シャマル、俺はてめえが気に入らなかった。最初に会った時から。殺そうとしたら逃げやがるからすげえうざいって思った。いつもいつも逃げ切りやがってすげえむかついた。
家光なんかとつるみやがってほんと、癪で、やなやつだって思ってたぜ」
男は淡々と告げた。
そんなこと知っていると言うように細められた目に向けて、彼はずいっと顔を近づけた。
まるで、聞き逃させないとでも言うように耳元へ唇を落とす。
「てめえのことが嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで憎くて憎くて憎くて殺してやりたくて、本当に殺してやりたくてたまらなかった」
「でも、好きだ」
ちゅっと。
音をたてて唇が離れていく。
男は、もうほとんど動いてない思考で(ああ)っと呟いた。
彼は笑っている。
もうすぐ男が死ぬことを知っていても笑う。
恐らく、死んでも、笑っているだろう。
いままでも、そうやって笑っていたのだから、これからも、そうだろう。
誰が、死んでも、誰が、生きていても。
男は、彼が嫌いだった。
なんと言っても口は悪いし、初対面は最悪だし、それから再開するたびに最悪であったし、何をしても、されても、ありえないことだらけで、何を思ったか男を追い掛け回して。
痛い目にも何度もあわされた。辛い目にもあわされた、苦しめられたことも、悲しまされたことも、激怒させられたことも、まるで、自分に表せない感情を押し付けるかのように。
付き合う方をいつも振り回して、横暴で、凶暴で、最低で、最悪で、とにかく化け物で、とにかく、早く死んで欲しかった。
寿命がいくらあっても足りないと思った。
恐らく、男の寿命を削ったのは彼だろう。
しかし、予想とは大違いに男は寿命でも彼のせいでもなく死んでいく。
思い返してみれば、男には彼が笑っている顔しか思い浮かばない。
もしかしたら、何回か違う顔を見たかもしれない。
しかし、思い出せない。
最初から、最後まで、笑うだけ。
(ああ)
(俺も、好きだったかもしんね)
「やっぱりな」
心を読んだかのように、彼はそう呟く。
男の心臓が止まったのは、それからすぐのことだ。
何度か身体は重ねたけどよ、けっきょく、唇へのキスは無かったな。
彼の小さな呟きは誰の耳に届く訳でもなく、風に溶けていった。
反転すると何かあるかもしれません。
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