それは、俺の名前がまだなかった頃の話だ。
裏路地に捨てられて後は死んで腐るか、殺されてばらされるかしかなかった俺に手を差し伸べたのは変な男だった。
上品で高そうなスーツに裏がまったく読めない笑み、自信に満ちた視線で俺を見て、話し掛けてきやがった。
本当なら、そんな人間は俺を見ない、見たとしても見なかったふりをして目をそらすというのに、俺の目をじっと見詰めて笑いやがる。
俺はその笑顔に妙にいらいらした。
胸の辺りがもやもやする。
その男は、どうも俺を拾いたいらしい。
こんなガリガリで今にも死にそうなガキを拾ってどうるするというのか。
聞きたかったけどうまく喋れない。
それもその筈だ。
俺はもう3日も飲まず食わずで、しかもつい数時間前に俺の目が気に入らないという酔っ払いにボコボコにされたばかりだった。
このまま一晩過ごせばあっさりと俺は死んでいただろう。
ただ、俺の幸運は男に出会ったことだった。
男は俺の考えを読んだのか目が気に入ったと答えた。
酔っ払いにそのせいでボコボコにされた目がいいと。
誉められたことが初めてだった俺は正直戸惑った。
なんなんだろうこの男は。
最初はただの酔狂男か、そういう趣味だと思ったが、違う。
なんだろう、何かが圧倒的に違う。
その男は何度かうなずいて、俺に手を差し伸べた。
「私は、君を拾ってあげよう」
心臓が、跳ねる。
酔っ払いにボコボコにされた傷が、熱い。
もしかしたら、震えていたかもしれない。
酔っ払い男に腹を蹴られた時のように呼吸がうまくいかない。
なんなんだ、知らない。
こんな感覚も感情も、俺は知らない。
「そして、たくさんの物を与えてあげよう」
手だ。
「命の危機を感じなくていい寝床を、飢えることのない十分満ち足りた食事を、無知と呼ばれぬだけの教育を与えよう」
手が、目の前に。
「君に武器を与えよう」
がっしりしたものではないが、ふしくれだってぼこぼこで、男の手だった。
「君に愛を与えよう」
殴る為でも拘束する為でも奪う為でもない手。
「君が望むのならば家族を、仲間を、敵を与えよう」
知らない手。
「その代わり」
頼みがあると、男は言葉を切った。
まるで、こちらを伺うように、答えを待つように。
返事は、一つしかないというのに。
「い、い……」
悲鳴以外の声が喉を震わせる。
切れた唇が痛い。
それでも、必死に返事をつむぎ出した。
「なん、でも……やる」
そして、力がこもらない手で、男の手を握った。
ゆっくり、ゆっくり、それでも、確かに。
見た通りの手だった。
ただ、温かい。
自分以外の体温がそこにはあった。
男は、強く俺の手を握り返す。
俺の手は、赤を通り越してドス黒くなった血がこびりついているのに。
そんなこと一切気にせず、強く、それでいて手加減していた。
「私には一人、息子がいてね」
男は笑う。
俺の細い腕を引きよせながら。
「仕事柄全然かまってやれなくて、少し拗ねて育ってしまったが、とてもいい子なんだ」
息子。
よくわからない単語だった。
親に捨てられた俺には、男の言葉がよくわならない。
ただ、男は息子のことがすごく好きで、愛している。
しかし、息子は幼いせいかわからないとか。
色々なことを聞かせたくれた。
俺よりも少し年下だとか。
母似であるとか。
そして、俺を抱き上げると囁く。
「忠誠を誓えとはいわない、どうか、どうか少しだけ、愛して、好きになってやってほしい」
そう、その為だけに君を拾おう、そして与えよう。
男は、俺の手を握った方とは逆の手を握る。
そこには、あの酔っ払いを刺してやったナイフ。
「名前は?」
「す、」
俺のたった一つの持ち物。
「す、ぺ……るび」
「スぺルベ?」
頷く。
ナイフに刻まれたその文字。
「スペルビ、そうかい、スペルビか」
男に名前を呼ばれた時。
俺には名前ができた。
男は笑って何度も俺を呼ぶ。
俺はうまく答えられない。
ただ、どうしようもない気分だった。
殴られたり蹴られたりしたときよりも、ずっとずっと泣きたい。
胸の辺りが、痛い。
傷が妙にじくじくする。
「あ、んた、は?」
「私かい?」
「ん、な……ま、え」
「私の名前か……そうだね、ドン・ボンゴレあるいはボス、とよく呼ばれるよ」
「ぼ、」
「なんだい、スペルビ」
もう、どうなったっていいと思った。
捨てられた時や暴力を振るわれた時のやけっぱちでなく。
ただ、無性に、この男についていこうと、この男の為ならなんだってしてやろうと、そう思った。
そう、望むのならばなんだって、この男の息子だってよくわからないが、好きになってやろう、愛してやろうと思うくらい。
これは、俺の名前ができたばっかりの頃の話だ。
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