兎とナターレ・オマケ
婚約届けと書かれた紙を前に、男と女は固まっていた。
少女だけが愛らしく、ニコニコと笑って待っている。
もしも、これが少女以外に差し出されたものであれば、男も女も切れて紙をビリビリに破いたことだろう。
しかし、相手は最愛とも言える少女で、どこまでも無邪気で悪意が見つからない。
沈黙に不安になってきたのか、笑顔が消えて、おずおずと口を開いた。
「だめ……?」
その気の趣味がない男でも、思わずなんでも肯定してしまいそうな表情だった。
それが、娘を溺愛する父親であれば恐らく素で大気圏突入くらいやるだろう。
男は、ぐっと、覚悟を決めた目をした。
緩慢な動きで、女に視線をやる。
女は、その視線に頷いた。
「ス、」
名前を呼ぶ前に、女が動く。
一度、紙にちらりと視線を向け、すっと男の手から抜き取った瞬間、
ぐしゃり。
「え」
「え?」
特に何を思った様子もなく握りつぶした。
そして、男にしがみついた少女を持ち上げると呆然とする男と少女を置き去りにくるりと背を向け扉へと歩いていく。
途中ではっとした少女が暴れるのを、言い聞かせるように口を開いた。
「ったく、大人をからかうんじゃねえ、どうせルッスとかベル辺りにけしかけられたんだろうが、ボスが困ってるだろお」
「ちっちがうの!! からかってないの!!」
「へいへい、そろそろルッス特製のブッシュ・ド・ノエルができてるから食いにいくぞお」
「ママン!! 私ね、ママンとパパンが……」
「シャンメリー飲んでとっとと寝ろ」
「うー!! ママンのわからずや!! 鈍感!! パパンも大変でしょうね!!」
「そんな意味のわかんねえ言葉どこで覚えてきたんだ。ほれ、一緒にいってやるから」
「やー!! 名前書いてー!!」
「つーわけで、ボス、こいつ寝かしつけてくるからよお」
男は、何も言えなかった。
色々なチャンスを逃してしまったからだ。
少女が振り返って赤い瞳で訴える。
だが、男は口を開けない。
扉が開き、少女が口を開いた。
「パパンの意気地なしー!!」
パパンの意気地なしー。
意気地なしー。
なしー。
その声は、屋敷中に響き渡り、聞いたものは思わず十字を切った。
誰にその言葉が飛んだから、わかったからだ。
だからこそ、冥福を祈らずにはいられない。
「てってめえ!! 耳がきーんってしただろ!! なんで声がでけえところは俺に似てんだよ!!」
「ママンの娘だーかーらー!!」
その日、一日どころか一週間、男は立ち直れなかった。
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