スクアーロには逆らえない人間が何人もいる。
最初は一人だった。
その一人だけに忠誠を誓い、一人の命令を聞き、一人の為だけに動き、一人が死ねといえば死に、生きろと言えばどれだけ恥をさらしても生きる。
たった一人だけだった。
それなのに、時間が過ぎて気づけば、スクアーロが逆らえない人間はすでに両手でないと数え切れなくなっていた。
恐らく、気づかず逆らえない人間もいるだろう。
それを抜きにしても、スクアーロは目の前の女性に逆らえなかった。
そう、目の前の女性は、逆らえない人間の中でも三本の指に入るだろう。
彼女の前ではスクアーロは両手をあげて頷くしかない。
抵抗するだけ無駄なのだ。
しかし、いくら最後には折れるとわかっていても、スクアーロは今回だけは最後まで抵抗せずにはいられなかった。
じっと、上目遣いで見つめてくるアーモンド色の大きな瞳。
期待に満ちた表情は、強制はしないものの、言外にお願いと伝えてくる。
ね、お願いと、更には言葉にまで彼女は出した。
年齢よりも幼い仕草と笑顔は彼女の魅力を最大限に引き出す。
このお願いを断れる人間がこの世にいるだろうか。
いるかもしれない――しかし、スクアーロは断れなかった。
「つっくんはね、お母さんと買い物嫌って言うの」
店先のウィンドゥを覗き込みながら彼女は背後で不機嫌そうなスクアーロに話しかけた。
本来ならば、話しかける者はおろか、近づく者すら皆無なこの雰囲気の中でも、彼女はいつも通り笑う。
その笑みはスクアーロを毒気を抜き去り、怒る気も抵抗する気も根こそぎ奪っていく。
スクアーロは、代わりに買い物を断ったつっくん――彼女の息子の顔を思い出してその顔を思いっきり殴る妄想に逃避した。
彼女の息子さえ気前よく買い物に付き合えば自分が引っ張り出されることもなかったというのに……スクアーロはそう考えながら想像の少年をもう一発殴る。
「私もたまには親子で買い物とか行きたいのよ。
でもね、つっくんは一度決めると頑固だから絶対行ってくれないし、それにね」
彼女は振り返って満面の笑みを見つけた。
「つっくんじゃ、女の子の服着れないしね」
スクアーロは、気絶したくなった。
スクアーロは、一般的な性別において女性だった。
ただし、スクアーロを初めて見た人間は100人の内98人はスクアーロを女性とは判断しないだろう。
なぜなら、スクアーロは女性というには背も高すぎる上に、目つきも口も悪い、体は華奢の部類に入るが、それは鍛えられたゆえの無駄のないしなかやか体であり、いつも体のラインのわからない服を着込み、胸も平均を大きく下回り、まな板までとはいかないが小さかった。。
その上、力もその辺りの男どころかごくごく選ばれた人間と同じか勝る程の強さを持っている。
そんなスクアーロを見て女性と思うのは、よっぽどの超直感の持ち主だけだ。
そして、そんな要素を併せ持つせいか、スクアーロは自分を女だと思わない、思われるのが嫌だと思うらしく、わざと男のように見せていた。
むしろ、今更女性のように振舞うのが恥ずかしいというのもあるのだろう。
年齢がそれなりになってから女性的なものなど近づけたことすらなかった。
それなのに、それなのに、今、スクアーロは今、目の前に女物の服を突きつけられている。
冷や汗がだらだらと流れた。
目の前で、楽しそうな彼女が、どっちがいいかしらーっと聞いてくる。
それだけならば、傍目から見て、彼女の服選びに付き合わされる彼氏に見えるだろう。
しかし、内実は違う。
今、彼女はスクアーロに着せるべき服を選んでいるのだ。
遠巻きに、店員のひそひそ声が聞こえる。
恐らく、彼女の手にしている服が彼女のサイズよりも明らかに大きく、彼女が着るべきデザインではなからだろう。
そして、彼女は、時折、スクアーロの体にその服を当ててみては首を傾げる。
その行為は、当然誰の目から見ても、その女物の服をスクアーロに着せようとしているようにしか見えないのだ。
「スクアーロちゃん、どっちがいい?」
小首を愛らしく傾げる彼女に、スクアーロは叫びたくなった。
しかし、叫ぶことはできない。
じっと、彼女の持つ服を見る。
どちらもあまりにも派手すぎた。
選べず硬直していると、勝手に完結したのか、服を片付け、別の服に手をかける。
「スクアーロちゃんは何色が好き?」
「……黒」
せめて、色だけでもおとなしいものをと提案すると、彼女はにっこり笑って「そうね、スクアーロちゃん黒が似合うわ」と喜んだ。
そして、黒い服を手に取ると、はいっと突き出す。
スクアーロは思わずその服を受け取ってしまったことを後悔した。
その服は、あまりにも露出が激しすぎた。
長袖ではあるものの、胸がV字に大胆に開かれ、しかも、へたをすればヘソが出る程裾が短く、その上、スカートの丈は服として機能するのか、下着が見えそうな程短い。
「奈々……」
「スクアーロちゃんは美人だし、スタイルもいいからきっと似合うわ!」
抗議しようと口を開くが、彼女の言葉に遮られる。
「女の子の服選ぶの、夢だったの」
そう、嬉しげな瞳で言われては強く出ることもできない。
スクアーロは手の中の服を見る。
着るのか、着れるのかこれを。
彼女の輝く瞳を見れば、着るしかないのかという選択肢が浮かぶ。
しかし、スクアーロの山よりも高く海より深いプライドが、それをぎりぎりの理性で抑えた。
彼女から目をそらし、ずいっと突き帰す。
恐らく、彼女は目に見えて落ち込んでいるだろう。
それを考えるとじくじくとなけなしの良心が痛むがしかたない。
「もう少し、露出度の低いのが、俺はいいと思う……」
ちらりと、良心に負けてスクアーロは彼女の表情を伺った。
「そう……そうよね……」
「……?」
「そうよね! スクアーロちゃんはセクシー系も似合うけどもっとシックなのもいいわよね!」
予想に反して、彼女の表情は明るかった。
「ああ、でもスクアーロちゃん足きれいだからミニスカートは外したくないけど……背が高いからボリュームのあるロングスカートもいいわあ……私じゃ絶対似合わないから諦めてたあの服もスクアーロちゃんなら似合うわよね!」
「奈々……?」
「でも、スクアーロちゃんには黒もいいけど、白も似合うと思うの。だからね、あっちの売り場にも行きましょう!!」
彼女の憧れるシュチュエーションの一つに「娘と話し合いながら服を選ぶ」という項目があることに、スクアーロは気づいていなかった。
それから、スクアーロは売り場を渡り歩き、激しく着せ替えをさせられることとなる。
途中で、女性だとわかった店員も交じり、スクアーロは息つく暇なく着替えさせられた。
「モデルみたいですね」
「こっちはいかがでしょうか?」
「いいえ、こちらの方が足がキレイに見えますわ」
「そうねー、でも色はこっちが」
「あら、ブラはお付けでありませんの! いけませんわ!! いくら小さくてもよい形をしているのにもったいないです!!」
「それでしたら、こっちのガーターベルトなんて……!」
「あらあら、最近の下着は際どいのねー」
ついには下着まで脱がされそうになった時はさすがに声を荒げたが、女性たちの猛攻は止まらない。
そして、最後にはぼろぼろのスクアーロと両手いっぱいの荷物だけが残った。
恐らく、どんな過酷な戦場へ行った時よりも心を傷つけたスクアーロはよろよろと歩く。
いつもならばぴんっと伸ばした背筋も、丸く、まるでそのまま消えてしまいたいと思っているようだった。
しかし、逆に彼女はご機嫌で、鼻歌すら歌いだしそうなほどその足取りは軽やかだ。
そんな彼女の後をとぼとぼ歩きながらも、スクアーロは少しだけまあいいかと思っていた。
彼女が喜んでいるならば、自分の犠牲などいいかと。
「あら!」
びくりっと体を跳ねさせる。
さすがによいかと考えても、限界なのだろう、恐る恐るスクアーロはどうしたのか聞いた。
すると、彼女は嬉しそうに少し向こうの店を指差す。
「少し、寄って行きましょう」
スクアーロが指を視線で追えば、そこには喫茶店の文字。
ほっと安堵の息を漏らし、「いいんじゃねえ」と答えれば、彼女はますます軽やかに歩く。
何より、疲れていたスクアーロは椅子に座れるなら願ったりかなったりだと思った
「………」
のは、店に入るまでだった。
店に入ったスクアーロが見たのは、乙女ちっくな色と装飾の施された店内と、女子学生だと思われる少女たち。そのどの少女も制服でなければふわふわとした服を着、店員すら愛らしい服装に身を包んでいる。
彼女はともかく、かなり場違いなスクアーロは、扉の前で硬直した。
「スクアーロちゃん、入らないの?」
入れるかっと叫びたくなるところを抑え、一歩踏み出す。
店員の目が、この場にふさわしくないスクアーロを凝視し、そして、ふっと慈愛の笑みに変わった。
つまり、スクアーロは彼女の趣味に無理矢理付き合わされる彼氏だろうと判断されたのだ。
そのまま、席まで案内されると、傍らにおいてあったメニューを開く。
そして、絶句した。
「スクアーロちゃん、どれにする?」
スクアーロは答えられない。
ただ、メニューを見て今日最大の眩暈を覚えている。
一言で言えば、メニューは理解不能だった。
日本語が読めない訳ではない。
確かにスクアーロは日本語はあまり得意な方ではないが、あくまでそれは得意な方ではないというだけで、喋るのも読むのも一般的な日本人と変わらないほどである。
しかし、メニューは別の意味で理解不能だった。
「私はね、虹の妖精さんのうっかりスウィートとか、春風の悪戯☆フルーツがいいと思うの」
「………」
貴婦人の甘い囁きケーキ、ほろ苦い少女のショコラ、恥ずかしがりやな小人さんの白いお家……そこに並ぶ名前の数々は、横に写真がなければ何を指しているか想像がつかなかった。
スクアーロにしてみれば、なぜこんな訳のわからない名前にするのかさっぱり理解不能。
しかも、メニューをよく見れば「はっきりと商品名をお言いください」と書いてある。
しかも、この名前以外の名称は受け付けないとまで書いてあった。
スクアーロは泣きそうになりながら飲み物のページまで飛ばす。
飲み物ならばまともな物があるだろうと考えたが、予想はあっさりと裏切られた。
そこにも、またスクアーロには理解不能な名前となったコーヒーや紅茶がかかれているのだ。
だんっと、スクアーロは机に突っ伏した。
スクアーロの限界値を超えた事態に思考が止まる。
結局、一番まともそうな名前である白雪姫(とかいてスノーホワイトと読ませる)を頼み、事なきを得た。
目の前の彼女は始終嬉しそうに恥ずかしげもなくメルヘンチックな名前をあげていく。
優しい瞳の店員が遠ざかると、彼女は口を開いた。
「夢だったの、こうやってね娘と買い物して、かわいい喫茶店はいって一緒にお話しするの」
「……」
「スクアーロちゃんは娘じゃないけど、嬉しいな」
その笑顔にスクアーロは少し照れたように目をそらす。
出された水に口をつけながらごまかす様に今日買ったものの話をすれば、にこにこと彼女はどれも似合うや、今度着てまた買い物に行こうと少し遠慮したい話題になる。
そして、注文した物が机に置かれ、スクアーロが自分が頼んだ物がパフェだと知った時、唐突に彼女は聞いた。
「ねえ、スクアーロちゃん」
「なんだあ?」
「好きな人とかいる?」
「はあっ?」
あまりの生クリームの量にどこからスプーンを入れていいのか迷っていた手を思わず止める。
「好きな人とかいる?」
彼女の目が、きらきら光っている。
こういうときの彼女はたいがいしつこく、そして何かを期待しているのをスクアーロはこの短い期間で知っていた。
しかし、いきなり、好きな人はいるかというのはあまりにも突飛過ぎる。
スプーンを取り落としそうになりながら、スクアーロは聞き返した。
「んだって……?」
「スクアーロちゃんが気になる男の人とか、いるのかなって」
「気になる……?」
「そう、スクアーロちゃん、恋人はいないみたいだけど、好きな人はいるのかなって……」
好き、という単語がスクアーロの頭をぐるぐる回った。
無意識の頬が赤くなる。
誰かの顔を思い出した訳ではないが、そういう話題自体したことのないスクアーロにはうまい答えが導き出せない。
しいて言うならば、目の前の彼女に好意を感じるものの、それはどこか、憧れ、あるいは尊敬に近い。
誤魔化そうと口を開くが、うまい話題が出ない。
スクアーロは適当に生クリームをすくい口に運んだ。
「その……」
「うん」
彼女は、相変わらずきらきらとした目でスクアーロを見つめる。
口の中でクリームが舌に甘さを伝達した。
好きと言われて最初に浮かぶのは、自分を拾った人。
しかし、やはりその人も、昔ならともかく、今は彼女の期待する好きとは違うのだろう。
それこそ、昔ならば胸を張ってその人の名前を出して、愛人になりたいと叫んでいる。
だが、今は違う。
「わかんねえ」
素直に口に出してみれば、それが一番しっくりくる。
わからないのだ。
好きだとか、嫌いだとかはわかっている。
しかし、彼女の望む好きはわからない。
スクアーロにとってこの店のメニューのように理解不能なのだ。
「そう」
意外にもあっさりと彼女は引いた。
それが、スクアーロの素直な気持ちだったからだろう。
彼女も、頼んだフルーツタルト(春風の悪戯☆フルーツ)を口に運んだ。
それに習い、少し溶けてしまったアイスを口に運ぶ。
やはり、甘い。
甘い物は嫌いではないが、久しぶりに食べると美味しいと思うよりも甘いが先立つとぼんやりとスクアーロは思った。
そして、また、唐突に口を開く。
「じゃあ、うちのつっくんのことどう思う?」
「ガキだなあ」
ごくあっさりと言ってみれば、彼女は少し残念そうな顔をする。
それに、スクアーロも少し意味を取り違えたことに気づき、少し考えた。
つまり、話の流れ的に彼女の息子を好きなのかと聞いたのだろう。
スクアーロの頭の中で、彼女によく似た、彼女の夫にあまり似ていない少年の顔が浮かぶ。
怯えた顔と、驚くほど逆の顔を持つ少年。
嫌いではない、ただし、好きでもない。
つまり、彼女の期待する観点からはどうでもいい。
そう結論付けるか、彼女の前でそういうべきか迷った。
なんと言っても彼女の息子だ。
目の前でそういうのもなんだろう。
「嫌い……じゃねえなあ……」
そう曖昧に濁せば、彼女は少しだけ身を乗り出した。
「つっくんはね、普段は情けないけど本当はすごくいい子なのよ」
それから、彼女は親でなければ見つけるのが困難な長所を並べ立て、ついでに本人が聞いたら赤面して怒鳴るような昔話や、親孝行の話をし続けた。
そして、適当に相槌を打ちながらコンフレークを口に運ぶスクアーロに、まるで夢見るような瞳で告げる。
「スクアーロちゃんがつっくんのお嫁さんになってくれたらいいのに」
スクアーロは、パフェを吹くのをぐっと耐えた。
お嫁さんという自分にあまりにもふさわしくない言葉。
彼女がいったい何を考えてるのか理解できない。
スクアーロは聞こえないふりをして半分ほどに減った生クリームを更に減らす。
「そしたら、スクアーロちゃんが本当の娘なのになあ」
彼女の言葉は意外なことにそこで終わった。
後は、ただ、フルーツタルトとパフェをもくもくと片付けていく。
時折、一口頂戴や、おいしい?と聞いてくるが、会話はそれだけだった。
あまりのさっきまでの饒舌ぶりと違う寡黙さに首を傾げながらも食べ終わった彼女とスクアーロは店の外に出た。
彼女は、相変わらず楽しそうに笑っているが、話題を振ってこない。
もしかして何か不機嫌にでもなってしまっただろうかとスクアーロが思い始めた頃、少しだけ振り返って彼女は口を開いた。
「聞いてる子がいるから、お話の続きは今度にしましょう」
スクアーロは、なんのことだかわからずますます首を傾げたが、なんとなく、なんとなくであるが、彼女を更に尊敬した。
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