「スクアーロの、バカ」
同時に、彼の目の前に牙の羅列が見えた。
ついでに、牙だけではなく、その奥の赤黒い口内までしっかりと彼の鍛えられた視力は見取る。
避ける暇はなかった。
避けようと意思よりも前に現状を把握できず立ち尽くしてしまった彼の銀髪に羅列は突き刺さり、びちびちと暴れる。
男は、驚きで麻痺した感覚を痛みによって思い出した。
だらりっと、視界が赤く染まる。
同時に、叫んだ。
「ぎゃあああああああああ!!」
頭に包帯をぐるぐる巻きにされながら、彼はぶすっと窓を睨んでいた。
別に、窓の外になにかがある訳でも、憎い相手がいる訳でもない。苛立っているのにじっとしているのが耐えられないだけなのだ。
包帯を巻く男の手は、震えている。
それは、怖いからでも寒いからでもない。
笑いを、ぐっと堪えているからだ。
「……いったい何があったの?」
噴出しそうになりながらも男は聞く。
声にはありありと好奇心が含まれ、彼の機嫌をますます悪くする。
しかし、男にとってはそんなこと気にすることではない。
目の前の、頭に牙の痕をつけた経緯の方がずっとおもしろく興味の対象だからだ。
「……言いたくねえ」
ぽつりっと不機嫌を隠すことのない声に、男は執拗に問いただす。
しらを切りとおそうと彼は必死だが、男の方が一枚上手だった。
逃げようと誤魔化す言葉を巧妙にとりあげ、頭の話題へと戻すのだ。
とうとうただでさえ短くなっている堪忍袋をぷちんっと切らせた彼は怒鳴る。
同時に、開いた傷から血が溢れ、包帯を赤く染めた。
「ちょっと、興奮するとまた血が出るわよ?」
「誰がさせてんだ!!」
「場所が場所なんだから貧血とか嫌よ?
で、何があったの?」
「〜〜〜〜〜〜〜!!」
あくまで聞き出そうとする男の言葉に、ついに彼は口を開いた。
言いにくそうにまゆをひそめ、眉間のしわを濃くする。
迷うようにそらされた視線、沈黙。
しかし、その沈黙が嫌なのか、彼はやっと一音を吐き出した。
「ド」
「ど?」
「髑髏がよ」
「ああ、あの、新入りの子?
小さくてかわいいわよね。私もあんな風に生まれたかったわ。そしたらかわいい服着てお化粧して……」
「……」
「何よ、その目。
いいでしょ? 私がかわいい女の子に憧れても」
「……それでよ、髑髏がよ、聞いてきたんだ」
「何を?」
彼はぽつりぽつりと語りだす。
それは、ほんの些細な一言がきっかけだった。
本当に、彼にとっては何気ない、当たり前の一言。
「ボスが呼んでたから言ってくるぜえ」
そして、そんな普通の一言に、少女は微かに抵抗した。
「今日は、お休みって……」
「ま、そーだけどよお、急に仕事が入ることなんてしょっちゅうだあ」
「今日は、私と千種と犬と約束……」
「すまねえ、今度な」
そう言って宥めるように頭を撫でれば、少女は年相応の幼い表情で彼を見上げる。
お願いっと小さく呟いて瞳を潤ませた。
普通の男なら、ここで思わず頷いてしまうだろう。
しかし、彼は普通の男というには、少しだけズレていた。
一瞬だけ、困った顔をしたものの、迷うことも揺れることもない。
「ボスの命令だあ、我慢してくれ」
そう言って、少女の頭から手が遠のく。
思わずうつむいた少女に、彼は罪悪感を募らせるが、やはり、決心は変わらないらしい。
そのまま背を向けて進もうとする服の端をぎゅっと少女が掴んだ。
その力は弱く、簡単に振り払えるだろうが、彼は振り払えない。
ため息とともに振り返り、もう一度謝罪の言葉を口にした。
「すまねえ、この埋め合わせは必ずする」
「……スクアーロ」
少女は、うつむいたまま聞いた。
「私と――私たちと、スクアーロのボス、どっちが大事?」
答えは、すぐに返ってこなかった。
彼は空ろな瞳で問い返す。
しかし、少女の問いは変わらない。
うつむいていた瞳を上げ、強い視線で問い掛ける。
「どっち」
迷う。
まったく躊躇いも揺れもなかった彼が迷って視線をそらした。
嫌な沈黙が続く。
彼は、答えない。
何度も口を開くが、それもすぐに閉じられる。
それでも、少女は待っていた。
すがるように、祈るように。
それでも、彼は答えることができない。
ただ、ぽつりと、呟く。
「すまねえ」
それが、少女を選べないという意味なのか、どちらも選べないという意味なのかはわからない。
ただ、少女は、激怒した。
「スクアーロの……」
ぷるぷると震える拳を握り締め、ぎっと目つきをきつくする。
ひどく嫌な予感が彼を襲った。
それは、彼の主が彼を殴る前の雰囲気に似ている。
咄嗟に逃げようと身を引くが、それを少女は許さなかった。
「スクアーロの、バカ」
ソレは、いきなり空中から出現した。
ぎざぎざとした牙の羅列。
その奥の赤黒い見覚えのある口内。
ソレが、何か彼は知っていた。
今でも、ありありと思い出せる。
蘇る記憶と共に、恐怖が体に伝達された。
鮫。
そう、ソレは、子犬ほどの大きさの鮫だった。
鮫は、彼の頭めがけて落ちてくる。
避けられない。
顔が引きつるのがわかった。
彼は、その技の名前を知っている。
地獄道っと口が動く前に鮫は体に見合った巨大な口を開き、そのまま――
がぷっ。
彼の頭に食いついた。
激痛。
同時に牙の食い込む場所からだくだくと血が溢れた。
銀髪が、白い肌が赤く染まっていく。
「ぎゃあああああああああ!!」
「スクアーロのバカ!!」
少女は、そのまま走り出した。
びちびちと体を暴れさせる鮫は、離すものかと牙を更に食い込ませた。
激痛で目の前が揺れるが、彼は少女を追おうと振り返る。
しかし、思ったよりも鮫の重さと血を失った頭がうまく動かない。
足をもつれさせて勢いよく転んだ。
顔をあげれば、振り返ることのない少女の背中が遠のいていく。
視界が、赤い。
「……これで死んだらかなり間抜けだぞお!!」
そして、今に至るのだと。
彼が語り終えた瞬間、男は笑った。
何のためらいもなく、噴出し、声をあげて笑った。
笑うなと彼が怒鳴っても、拳を振り上げても、腹を抱えて。
「……スクアーロ、私を笑い殺すつもり」
ひとしきり笑い続け、まだぷるぷると震える肩を落ち着かせながら、男は聞いた。
今にも切れそうな彼は、無視して包帯を自分で巻き終える。
腹筋が痛いわっと男は呟いてため息。
「でもね、スクアーロ、そこは女の子なんだから、嘘でも「君だよ」って言ってあげるべきなのよ」
「……髑髏に嘘なんてつけるかあ」
「変なところ律儀ね……」
「……だってよ」
選べねえよ。っとぼやいた。
遠い目をしたまま、見つめる先は青空。
ふっと、男は小さく思う。
そして、その思いを口にした。
「私とボスどっちが大事?」
彼は、顔をあげて、すぐさま即答した。
「ルッス」
罪な男ね……。
男はそう呟いて遠い目をした。
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