目の前の白い服を睨みつけて、どれだけ時間が経っただろうか。
男は、何度か苦しげに瞬きを繰り返すと、自分が着ていた、というよりも羽織っていた黒い服を脱ぎ捨てた。
それはもう、憎むような乱暴さだったが、どこかその表情は切ない、物悲しいものだった。相反する二つの感情が渦巻いているのだろう、苦々しく唇をかみながら、黒い服を何度も踏みつけ、踏みにじる。
そして、それほど動いていないというのに荒い息を吐き出したとき、目の前の白い服を手にとった。
一点の汚れもない、真っ白な服。
広げてみれば、着るまでもなくそれは自分の姿にぴったりと、きついことだけは絶対にないサイズだということがわった。
躊躇いながら、袖を通す。
うつむくと視界に黒い服が見えるので、いっそ天井を仰いだ。
慣れぬ動きで白い服を着れば、彼は、白かった。
ただ、服が白いわけではない。
肌も、髪も、瞳も、全て白かった。そう、窓から入ってくる白い光にそのままに馴染んで消えてしまいそうな儚い白。
呼吸を整え、彼は首もとにその右手を持っていったが、そこで止まる。
右手の先には、首しか存在しない。求めていた感触はない。
ぐらりっと、眩暈。光がまぶし過ぎるんだと自分に言い聞かせながら、彼は扉へと歩く。
その扉を開いた向こうに、誰がいるかは知っていた。
「お着替えはすみましたか?」
「……」
「サイズの方、お間違えはないようですが、一応着心地などと……」
彼と同じ白い髪の少女が、二人。
その顔をマスクで隠しており、女性と男性という違いはあるが、どこか彼と少女たちは似ていた。
「うるせぇ」
その言葉に、少女たちの表情が少し変わる。
恐れでも、咎めるでもなく、呆れたような……しかし、どこか、親しみをこめた表情。
「……気分が最悪なのはわかりますが、会話くらいはなりたたせてください」
「そうですよ、兄様」
するりっと、その言葉は彼の耳から脳へと伝達された。
何一つ違和感なくその単語を受け入れる自分に違和感が湧き上がる。
頭痛がしそうだった。
「記憶復活に際して、意識の混濁や頭痛などの副作用があるのはわかっています。しかし、私たちは兄妹なのですから」
彼は、ぞんざいに頷きながら「着心地なんてどうでもいいだろうがあ」っとはき捨てる。
それよりも、速く案内しろと促せば、少女たちは元の無表情に戻り、男を先導する。
長い長い廊下を歩くうちに、胸の中に黒いしこりがずんずん詰まっていくのがわかった。
つい、数日前まではこの廊下をこうして歩く日がくるなんてまったく想像がつかなかったからだ。
「こちらに、おられます」
促され、ドアノブに手をかけた。
普通のドアノブのはずなのに、気分のせいか、それはとてつもなく重く感じられる。
心拍数が上がり、冷や汗が垂れる。それでも、開くしかなかった。
彼はゆっくりと、扉を開く。
その向こう、メガネの、どちらかというと冴えない、彼よりもいくつも年下だろう青年が彼と同じ服を着て待っていた。
彼は、扉を開ききると、閉めるのも忘れ、その前に大またで近寄っていく。
青年は、それを微動せず、やはり冴えない笑顔で見ていた。
「やあ」
その声に、彼は足を折る。
まるで、従者が主にするように、騎士が君主にするように。
毛足の長いじゅうたんに足をつけ、頭を垂れた。
彼はそこで、じゅうたんに求める色がないと一瞬思い、打ち払う。
からからに渇いた喉が、音を吐き出した。
「……お、久しぶりです、正一様」
「そうだね。何年ぶりっていうのも、変な感じだね。
そりゃ、君にとってはもう、何十年、だけど、僕にとっては、君を送り出したのはそう前のことじゃないんだから」
頭、あげていいよっと青年が言えば、彼は顔をあげ、青年の顔を見た。
(違う)そんな拒絶の言葉が流れる。しかし、それもあっという間に否定され、塗りつぶされた(この人だ)
「あんなに小さなかったのに、今は年上って、なんか変な感じ」
彼の創造主、彼の父、彼の主、自分は、この青年に使われるための道具だ。
びりびりっと言い知れぬ感覚が流れ込む。
「髪、切ったんだね。似合うよ」
「……」
「それにしても、本当に君はよくがんばってくれたね。記憶がなかったっていうのにうまいことあの怖い人に取り入って、信用されて、動かした。
君のおかげですごく未来は俺にとって円滑で都合のいいものとなったよ。本当に、こんなにうまいことになるなんて思わなかった。リングは無事に彼らの手に渡ったし、あの人を倒すことで誰もが彼を10代目候補としてすんなり受け入れてくれた。上出来だよ。
知ってる? 君一人が抜けただけで、ヴァリアーはガタガタ、あの人は今どうしてるか知ってる? 抜け殻みたいになってるらしいよ」
ちゃんと見た?
君が後ろから切りつけて、そのまま僕のところに走っていったときの表情。
あのまま、あの人死ぬかと思ったよ。
ずきずきと、彼の知らないところが痛む。
関係ない、関係ない、関係ない。
心の中で唱えながらただただ頭を下げた。
がたがたと思考に関係なく震える。
「うん、まだ拒絶反応が出てるみたいだね。でも大丈夫、もう少しすれば昔の記憶が馴染んで、今までのことは全部夢みたいに思えるから」
いい子だね。
そう言って頭に手をおかれた。
子どものように撫でられる手を、自分は知っている。
これが、馴染むということなのだろうか。
「ご褒美に、あの人は君に殺させてあげるよ。嫌だよね。嘘とはいえ、一度はボスって呼んでた人が他の人に殺されるの」
白蘭は約束してくれたよ。
「安心しなよ。ここでは、ちゃんとやることやれば、幸せになれるんだから」
くすくすという笑い声が、妙に懐かしく思えた。
「ねえ、昔みたいに呼んでくれる」
「はい……ぼ、す……」
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