マリアが、そこにはいた。
「どうしたの?」
憂いを帯びた瞳の女は、なんのためらいもなくそう声をかけた。
びしょぬれで、その上血まみれで、恐ろしい形相をした男でも。
一切の恐怖もなく、心配そうにそう声をかける。
どう見ても男は日本人ではなく、言葉が通じないのではないかという懸念もない。
ただ、心配そうに、慈愛に満ちた声で何度も呼びかける。
そっと、血に塗れた髪を汚れるのも構わず掻き分けた。
そのたおやかな手が赤く染まる。
男は、はっきりと、女を見た。
「Assunta……?」
それは、男の国の言葉で聖母マリアを指すものだった。
しかし、女はその国の言葉がわからなかったのか「それが貴方の名前? それともお友達?」と聞いてくる。
その頬に、汚れていない方の手が触れた。
温かく滑らかな手。
男は、これほど美しく温かい手を知らない。
思わず、猫のようにその手にすりつく。
そして、手を伸ばす。
光に、マリアに。
「大丈夫よ」
そっと、男の手袋に包まれた手を握った。
分厚い一枚に挟まれているというのに、男のその手は、本来熱を感じる筈がないというのに。
男は、震えた。
今まで知らない衝動が湧き上がる。
「怖くないわ。大丈夫、私がここにいるから」
その震えを恐怖だと思ったのだろう、男の腕を自分の体に引き寄せる。
「Assunta」
ひどく、涙が出る程、温かかった。
「あらあら、私はアッスンタじゃないわ」
優しい声で、告げる。
「私は、奈々」
眩しい程、無邪気な笑顔だった。
今まで闇ばかり見ていた男には、直視できないほど。
何かが、崩れていく。
男は、限界を悟った。
女は、微笑む。
「沢田、奈々って言うの」
男は、泣いた。
何かわからない感情が渦巻く。
どうしていいかわからない。
ただ、手にすがり付いて泣いた。
声をあげて、泣く。
まるで、幼子が母にすがり付くように。
それを、女は受け止めた。
濡れることも汚れることもかまわず、男を抱きしめる。
その頭を抱え、何度も何度も言葉をかけた。
「mamma」
なあに?
女は優しくその髪をなでた。
「母さんただ……ああああっ!?」
「あら、ツっくんおかえりなさい♪」
「おかっおかえりじゃないよ!!」
「え? ツっくんさっき帰ってきたんじゃ」
「そっそうじゃなくてさ!!」
沢田綱吉は、母の後ろを指差した。
指差した先、そこには異様な光景がある。
いや、光景ではない。
光景こそ、見慣れたものだった。
そこはリビングで、いつもそこで食事をしたりする、見慣れた光景。
その中に、異質が一つ。
「おい、奈々、こっちどれくらい煮込むんだあ?」
そう、それは銀の髪に銀の瞳。
昨日、死んだと思った男。
それが、今、どこから引っ張り出されたのか父の服を着て立っている。
「ひっ」
「あっ」
「スっくん、紹介するわ、私の息子の綱吉よ」
「奈々……だから紹介しなくても知ってるっつただろう?」
「人のお母さんを呼び捨てするなあああああ!!」
錯乱のあまりよくわからないツッコミを入れつつ綱吉は叫ぶ。
「なっなんでスクアーロがここにいるのさ!! しかもスっくんってめちゃくちゃ親しく!!」
「スクアーロくんって言いにくいでしょう? だからスっくん」
「いや!! そうじゃなくてさ!! しかも、なんでスクアーロも普通に受け入れてんの!?」
「言ってもきかねえし」
「ああ!! もう!! っていうか、本当になんでいるの!?」
「昨日、怪我して倒れてたから助けたの、そしたらツっくんとお父さんの知り合いだっていうから……」
「そっそりゃ知り合いだけど!! でもさ!!」
「おい、奈々、ふいてる」
「きゃあ! ちょっとツっくん待ってね!」
台所へかけこむ母の後ろ姿を見ながら、綱吉は頭を抱えた。
どうしていいかわらかない。
どこからつっこんでいいのかもわからない。
ただ、直感を信じるならば、男に殺意も敵意もなかった。
どころか、穏やかに、いっそ優しいまでの眼差しで母を見ている。
「俺はなあ、奈々に救われた」
ぽつり、呟いた言葉。
「だから、奈々を傷つける気もねえ」
むしろ、傷つけるものは許さないと。
そう、強い瞳で言った。
嘘のない、まっすぐな言葉。
「だから、てめえをどうこうしようとは思わねえ」
「……」
もう、どうでもいいのだと。
誇りもリングも勝敗もヴァリアーもボンゴレもマフィアもどうでもいいのだと。
そんなこと、大したものではなかったのだと。
そこに、何一つ、自分の求めるものなど、なかったのだと。
そう、語る。
「スっくん! あの棚のお鍋とってくれる」
「おう」
綱吉は何も言わなかった。
言えなかった。
そんな風に言われてしまえば、綱吉は何も言えない。
結局のところ、綱吉もそう思う。
綱吉は本当に、どうでもよかった。
本当に大事なのは、この、今の生活なのだ。
綱吉は、この今を守る為に戦っている。
誇りもリングも勝敗もヴァリアーもボンゴレもマフィアもどうでもいいのだ。
母が、笑う。
料理の匂いにつられて子供達が集まってくる。
子供たちは一瞬男を見て驚くが、それでも、すぐに瞳を合わせれば何事もないかのように席につく。
母は、椅子が足りないわねっと無邪気に言う。
明日は机と椅子を買いにいきましょうと。
なぜか、綱吉の目頭が熱くなる。
ここにいる、男も、子どもたちも、今、綱吉が守りたいものを一切今まで得られなかったのだ。
そう、綱吉がくだらないと思うものしか、大事だと思えなかったのだ。
幸せを、知らない側にいたのだ。
温かい食事。温かい部屋。温かい笑顔。
「母さん」
「なあに」
「明日の買い物、俺も付き合うよ」
「あら、珍しい」
皿を並べる男が、少しだけ笑った。
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