仮定14



 マリアが、そこにはいた。













「どうしたの?」

 憂いを帯びた瞳の女は、なんのためらいもなくそう声をかけた。
 びしょぬれで、その上血まみれで、恐ろしい形相をした男でも。
 一切の恐怖もなく、心配そうにそう声をかける。
 どう見ても男は日本人ではなく、言葉が通じないのではないかという懸念もない。
 ただ、心配そうに、慈愛に満ちた声で何度も呼びかける。
 そっと、血に塗れた髪を汚れるのも構わず掻き分けた。
 そのたおやかな手が赤く染まる。
 男は、はっきりと、女を見た。
 
「Assunta……?」

 それは、男の国の言葉で聖母マリアを指すものだった。
 しかし、女はその国の言葉がわからなかったのか「それが貴方の名前? それともお友達?」と聞いてくる。
 その頬に、汚れていない方の手が触れた。
 温かく滑らかな手。
 男は、これほど美しく温かい手を知らない。
 思わず、猫のようにその手にすりつく。
 そして、手を伸ばす。
 光に、マリアに。

「大丈夫よ」

 そっと、男の手袋に包まれた手を握った。
 分厚い一枚に挟まれているというのに、男のその手は、本来熱を感じる筈がないというのに。 
 男は、震えた。
 今まで知らない衝動が湧き上がる。

「怖くないわ。大丈夫、私がここにいるから」

 その震えを恐怖だと思ったのだろう、男の腕を自分の体に引き寄せる。

「Assunta」

 ひどく、涙が出る程、温かかった。

「あらあら、私はアッスンタじゃないわ」

 優しい声で、告げる。

「私は、奈々」

 眩しい程、無邪気な笑顔だった。
 今まで闇ばかり見ていた男には、直視できないほど。
 何かが、崩れていく。
 男は、限界を悟った。
 女は、微笑む。

「沢田、奈々って言うの」

 男は、泣いた。
 何かわからない感情が渦巻く。
 どうしていいかわからない。
 ただ、手にすがり付いて泣いた。
 声をあげて、泣く。
 まるで、幼子が母にすがり付くように。
 それを、女は受け止めた。
 濡れることも汚れることもかまわず、男を抱きしめる。
 その頭を抱え、何度も何度も言葉をかけた。
 




「mamma」





 なあに?
 女は優しくその髪をなでた。



















「母さんただ……ああああっ!?」
「あら、ツっくんおかえりなさい♪」
「おかっおかえりじゃないよ!!」
「え? ツっくんさっき帰ってきたんじゃ」
「そっそうじゃなくてさ!!」

 沢田綱吉は、母の後ろを指差した。
 指差した先、そこには異様な光景がある。
 いや、光景ではない。
 光景こそ、見慣れたものだった。
 そこはリビングで、いつもそこで食事をしたりする、見慣れた光景。
 その中に、異質が一つ。

「おい、奈々、こっちどれくらい煮込むんだあ?」

 そう、それは銀の髪に銀の瞳。
 昨日、死んだと思った男。
 それが、今、どこから引っ張り出されたのか父の服を着て立っている。

「ひっ」
「あっ」
「スっくん、紹介するわ、私の息子の綱吉よ」
「奈々……だから紹介しなくても知ってるっつただろう?」
「人のお母さんを呼び捨てするなあああああ!!」

 錯乱のあまりよくわからないツッコミを入れつつ綱吉は叫ぶ。

「なっなんでスクアーロがここにいるのさ!! しかもスっくんってめちゃくちゃ親しく!!」
「スクアーロくんって言いにくいでしょう? だからスっくん」
「いや!! そうじゃなくてさ!! しかも、なんでスクアーロも普通に受け入れてんの!?」
「言ってもきかねえし」
「ああ!! もう!! っていうか、本当になんでいるの!?」
「昨日、怪我して倒れてたから助けたの、そしたらツっくんとお父さんの知り合いだっていうから……」
「そっそりゃ知り合いだけど!! でもさ!!」
「おい、奈々、ふいてる」
「きゃあ! ちょっとツっくん待ってね!」

 台所へかけこむ母の後ろ姿を見ながら、綱吉は頭を抱えた。
 どうしていいかわらかない。
 どこからつっこんでいいのかもわからない。
 ただ、直感を信じるならば、男に殺意も敵意もなかった。
 どころか、穏やかに、いっそ優しいまでの眼差しで母を見ている。

「俺はなあ、奈々に救われた」

 ぽつり、呟いた言葉。

「だから、奈々を傷つける気もねえ」

 むしろ、傷つけるものは許さないと。
 そう、強い瞳で言った。
 嘘のない、まっすぐな言葉。

「だから、てめえをどうこうしようとは思わねえ」
「……」

 もう、どうでもいいのだと。
 誇りもリングも勝敗もヴァリアーもボンゴレもマフィアもどうでもいいのだと。
 そんなこと、大したものではなかったのだと。
 そこに、何一つ、自分の求めるものなど、なかったのだと。
 そう、語る。

「スっくん! あの棚のお鍋とってくれる」
「おう」

 綱吉は何も言わなかった。
 言えなかった。
 そんな風に言われてしまえば、綱吉は何も言えない。
 結局のところ、綱吉もそう思う。
 綱吉は本当に、どうでもよかった。
 本当に大事なのは、この、今の生活なのだ。
 綱吉は、この今を守る為に戦っている。
 誇りもリングも勝敗もヴァリアーもボンゴレもマフィアもどうでもいいのだ。
 母が、笑う。
 料理の匂いにつられて子供達が集まってくる。
 子供たちは一瞬男を見て驚くが、それでも、すぐに瞳を合わせれば何事もないかのように席につく。
 母は、椅子が足りないわねっと無邪気に言う。
 明日は机と椅子を買いにいきましょうと。
 なぜか、綱吉の目頭が熱くなる。
 ここにいる、男も、子どもたちも、今、綱吉が守りたいものを一切今まで得られなかったのだ。
 そう、綱吉がくだらないと思うものしか、大事だと思えなかったのだ。
 幸せを、知らない側にいたのだ。
 温かい食事。温かい部屋。温かい笑顔。

「母さん」
「なあに」
「明日の買い物、俺も付き合うよ」
「あら、珍しい」

 皿を並べる男が、少しだけ笑った。





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