※このサイトの設定のテュールさんが会話の中でだけ出てきます。
動くなと男は言う。
動きたくても動けねーだろと、彼は返した。
耳障りな、虫の羽音が響く。
「そりゃ、そうだ」
そう返した男は不精髭を撫でながら彼を見下ろす。
彼は寝ていた。
正確には強制的に体をベットに横たえられているという。
なぜ、彼がこうなったのか。
それは、ごく単純に男にとって、治療中に暴れたから顔以外に麻酔をかけたということだった。
「だって、お前暴れるだろ」
虫の羽音が遠ざかり、男の手の中に消えていく。
口しか動かせない彼は精一杯の罵声と睨みでもって男に抵抗する。
それはかなり汚い言葉で、大半に「腐れ」や日本語ともイタリア語とも英語ともつかない単語が混じっていた。
男は何気ない仕草で耳を塞いだ。
彼が叫び疲れて口を閉じたと同時に手を離す。
「そんなスラングどこで覚えたんだ」
お前にそんな言葉を教える奴に心当たりはないぞ。っと男は言う。
男は幾人か彼の保護者のような存在を頭に浮かべる。
幾人かスラングを口にしそうな人間はいるが、あえて彼にそれを教える人間はいない。
なぜなら、彼は男が知る限りでは極上に優しく丁寧に大事に育てられていたからだ。
汚い言葉を教えるなんてことは絶対にない筈だった。
もしも教えるものがいれば消されている。
「けっ、そんなの日常的に聞こえてるだろ」
「耳で聞いて覚えてんのか」
呆れ半分にそういえば、発音までばっちりの罵声をもう一つ。
「ちなみに、これはてめえの昔の女がてめえに浴びせた言葉だ」
男はその言葉においおい俺かよっと頭をかいた。
どうやら汚い言葉を覚えさせた原因の一端は男にあるらしい。
まいった、それがバレたらあの剣帝に殺されるだろうと男は思う。
スカウトを断っただけで今も恨まれているのだ。
こんな汚い言葉を教えた原因だとバレれば首と胴を真っ二つにされるだろう。
「昔はかわいかったくせに」
っと、男は嘆く。
瞼を閉じれば思い出すのは自分を見上げてくる白い瞳。
拙い日本語で自分の名を呼ぶのは、髪も長く華奢で愛らしかった頃の彼だ。
あの頃は少女と見間違ったものだ。
そのせいで胸まで触って確かめたら、剣帝と門外顧問の男と今は立派に不良となった男にどつかれたものだ。
本人はまったく気にせず、すぐさま忘れたようだが。
「うるせえ、エロおやじ」
罵声の中で一番マシな言葉を吐き出す。
それに対して男はまたため息。
睨み付ける彼に耳をかきながら呟く。
「俺はなー、別に弟子の応援にきただけじゃないんだぞー」
「はあ?」
「お前の保護者にお前のこと頼まれたんだよ」
「ほごしゃ……?」
「そう、むしろ脅された剣とか振り上げられて、いい笑みだったぜー」
「あいつか……」
彼の頭に浮かんだ相手に間違いないだろう。
名前も聞かず肯定する。
すると、がくっと力のが抜けたらしく、彼は目を閉じた。
「後、家光にもな。家光には立派にグレた御曹司も頼まれたけど」
「………」
「まあ、一番はあいつだ。今まで何度も殺されかけたが、お前になんかあったらもう手加減も容赦も遊びもなくなるだろうな」
「そうかよ……」
「それにしても、前々から反対されてたらしいな、守護者になるの」
「自分も守護者だったくせにぐちぐち言いやがって」
「守護者だったからこそだろ、あいつの場合」
別にいいもんじゃないぞ、守護者なんてっと男はぽつりと呟いた。
それが、男が守護者をやっていたのか、それとも守護者を見ていて思ったことなのか判断はできない。
彼は、男が守護者にふさわしい能力を持っていることは知っていたが、守護者だったかどうかは知らなかった。
もしも、そうであっても驚かない。
「お前も、いいことなんてなかっただろう」
「ねえよ」
いいことなど、何もなかったと。
守護者になったから何か良くなる訳でも強くなる訳でもない。
むしろ、何も変わらない、あるいは悪くなったようにも思えた。
相変わらず彼は暴力を振るわれたし、茶番に突き合わされたし、しかもその茶番で負けてしまった。
「だから、お前はいい加減パパんとこ帰りなさい」
ぎりりっと睨む眼光が強くなった。唇が嫌そうに歪む。
その反応を予想していたのだろう、男は我関せずという表情で淡々と告げた。
「俺はまだここにいる用事があるから。こっちで見張ってる家光の部下に送らせてやる。
だからイタリアに帰れ」
「ぜってえ断る」
「断ったらそのまま縛り付けて郵送してやるよ。ラッピングはサーヴィスだ」
「……」
「お前には穏便に帰るか、それとも寝てる間に送り届けられるかのどっちかしかない」
顔をしかめる彼に、男は机の上からカプセルを取り出した。
その中にはモスキート――蚊が入っている。
たぶん、それで眠らせるか何かしてその間に運ぶ気なのだろう。
彼はそれを悟ると急に声色を変えた。
「なあ、しゃまる」
妙に、甘ったるい声に聞こえた。
低いだけにその甘さは色気をともなう。
「……」
「おれ、やだ」
「……お前な……」
「しゃまる」
「……ちょっと待て」
「おれ、しゃまるといっしょにいたい」
「……どこでそんな誘い方覚えたんだ」
男は頭痛と眩暈を覚えた。
一瞬、彼に美女を見た時のような色気を感じてしまったからだ。
一生の不覚とばかりにこめかみを抑える。
彼は、少しだけ笑って見せた。
子供のようにも、娼婦のようにも見える。
ふらりと、男は思わず吸い寄せられた。
男の頭の中で警鐘が鳴る。これは危ない。やばい。おかしいだめだ。やめろ。危険だ。
さらりと白い髪が揺れる。美しい髪だ。
たぶん、男が見たどんな髪よりも美しいだろう。
「しゃまる」
するりっとその首に腕が。
「腕……?」
男が異変に気づいた瞬間、首を掴まれる。
それほど力はこもってなかったが、不意をつかれたには違いない。
見れば、さっきとは違う勝ち誇った笑みで彼は見ていた。
暴れない為に顔以外の全身を動けないようにしていたというのに。
「俺の回復力を舐めたな」
回復力の速さは知っていたがこれほどまでとは思っていなかった。
男は時間稼ぎかっと叫びかけて机の上のカプセルに手を伸ばす。
しかし、一度、モスキートを開放すれば一瞬で形成は逆転する。
だが、その行動は許されずその手を阻むように首を引かれた。
体勢が崩れる、机が遠のいく。
彼の会心の笑顔。
「ちっ!」
男は舌打ち一つで焦るように
「なーんてな」
耳障りな羽音。
「たく、昔から油断も隙もねえガキだ……」
ごほっと掴まれていた喉をさすり、男がぼやく。
「まさか、俺がいざと言う時を考えないと思ったのかね……」
いまやベットに眠る彼を気まずげに見下ろし、カプセルの中にモスキートを戻した。
穏やかな寝息をたてる彼は、さっきまでと打って変わっておとなしい。
むしろ、よく見ると女性的ではないが整った顔は美しいとも言えた。
「だー……もしもあの誘い方の原因も俺だって言うなら本気で殺されるぞ、ていうかさっきのことチクられたら確実に殺される」
どうするべきか。
このまま郵送してしまってもいいが、万が一色仕掛けにひかかったとチクられれば男の体と魂が離れ離れになる未来は明確だった。
しかし、放置する訳にもいかない。
厄介な相手になってしまった彼を見る。
「……たく、女だったら好みだったのによお……」
そう、10年以上前に呟いた言葉をもう一度呟いた。
「本当は男はみねえんだぞ、俺は」
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