王座は空しい



「クソガキが」

 真っ白な姿がそこに立っていた。

「剣帝……」

 思わず、呟く。
 そこに立つ、髪も、肌も、服も、ただ一つその空ろに浮かぶ両眼だけが黒い男は、なんの感情も宿さない瞳で彼を見ていた。
 男は、立っているだけで空間を圧迫し、彼を挑発する。
 しかし、男に殺気はなかった。
 ただ、背筋が凍える程の失望と冷酷さだけが、その表情に浮かんでいる。

「よくも、茶番で俺の息子を殺したな?」

 淡々とした声だった。
 怒りも悲しみも何もない、感情の見えない声。
 久しぶりに会った男の声はこんなものだったか、彼は少し考える。
 それは、場違いな考えだった。
 場違いでありながらも、彼は考える。
 この男は、こんな男だっただろうかと。

「お前に全てを捧げた息子を、お前の為に生きた息子を、お前の茶番に、お遊びに、計画に、人生についてきた息子を」

 そう、過去に会った時は、痛いほどの殺気を無意識に放つ男だった。
 にこにこと笑う裏側で、何を考えているかわからない、そんなはるか高みにいるような、彼の父に似た存在。
 血の匂いと死の匂いをまとわせ、記憶の中では黒い服ばかり着ていた。
 どちらかといえば嫌いの部類に入っていただろう。
 なぜなら、幼い頃から男は隻腕だというのに彼より遥かに強く、そして、彼の父の守護者だったからだ。父を嫌う彼は父の傍にいる者を特に嫌った。
 いや、それを抜きにしても彼は男が嫌いだった。
 見下すような視線が、からかうような口調が、そして、本能的な部分で、彼は男を嫌っていた。

「お前が、殺したんだ」

 白い指が、彼をさす。
 そらされることのない昏い瞳が、彼をとらえる。
 彼の口が、感情もなく言葉を吐き出した。
 
「あのバカは、勝手に負けて死んだだけだ」

 彼の言葉を聞いた瞬間、男は微かに唇を歪めた。

「負けたとか、勝手に死んだなんて問題じゃねえよ」

 男は、言い訳をするなと罵った。

「お前が殺したんだ」
「茶番につき合わせて」
「突き放して」
「壊して」
「死んだんだ」
「おまえがころした」

 まるで、死刑を宣告するように、男は言った。
 責めるように、突き放すように、真実を告げるように。
 ゆっくりと、繰り返す。

「お前を殺してやろうかと思った」

 よく見れば、いつの間にかその片腕には剣が握られている。
 間合いは、彼よりも男の間合いだった。
 強さはほぼ同等か、彼が勝っている。
 しかし、経験や呼吸は、男が勝っていた。
 恐らく、決着は一瞬。
 どちらが勝っても負けてもおかしくはない均衡状態だった。






「だが、やめた」






 男は、あざ笑った。






「まさか、そこまで弱ってるとはな」






 瞳を弧の形に細め、唇の端を歪める。






「殺す価値すらない」






 冷たい笑みだった。
 彼は、何も言わない。
 ただ、男を睨んでいた。
 無意識に、拳を握る。
 殺気が、空間に満ちた。

「まだ気づかないのか、愚かなクソガキだ」

 はき捨てるように、男は笑う。
 その視線には、微かな憐憫すら混じっている。
 それは、男が初めて見せる微かな、笑う以外の感情だった。

「息子は、お前の半身だったんだ」
「お前にとって、最も大事な部分だったんだ」
「もう、切り離せない程依存していたくせに」
「もう、代わりなんてみつかりはしない」
「哀れだな、本当に、哀れだな、クソガキ」
「かわいそうに」
「かわいそうに」
「同情してやろう」
「最後まで、最後でも気づけなかった」
「これから先、お前が何も得られない」
「何も喜べない」
「何にも満たされない」
「飢えて乾けばいい」
「ずっと、息子の欠落を抱えていればいい」
「いや、そうなる、そうなったんだ」

 ははっと乾いた笑いが響いた。
 しかし、その声もすぐに途絶える。
 にこりっと、男は、張り付いた笑みを浮かべた。
 そして、まるで機械のように綺麗なお辞儀をすると背を向けた。
 
「それでは、がんばって下さいませ、10代目候補殿」

 まるで、警戒心のない背中。
 警戒する必要などないとでも言うような無防備さで、男は去っていく。
 まるで、自分がその背中から殺されることなど、微塵も考えてなどいないかのような余裕で。
 白い姿が闇に馴染み、消えていくのを、彼はじっと睨んでいた。
 言葉が、まるで呪詛のように残る。

「………」

 彼は、壁を殴った。
 鈍い音が辺りに響き、壁が拳の分だけ陥没する。
 それでも、彼は何も言わなかった。
 ただ、いつまでも、男の消えた闇を睨んでいた。
 彼は、気づいたのだ。
 男の見せた感情が、失望だということに。 


忘れ物




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