「つきあたり」
声に、答える。
「左側のカラヴァッジオ」
彼は、そこに立っていた。
あの、黒の制服ではなく、黒いスーツで。
闇から浮かび上がる髪を揺らし、こちらを睨んでいた。
「家光んとこのガキか」
「はい」
しかし、その目にはあの時、自分を見た殺意も敵意もない。
どころか、力すらない。
確かに、あの時と同じ瞳で、色だというのに、なんとなく大人しい印象すら見える。
でも、自分は知っていた。
そういう目をする人間を知っていた。
それは、鏡の中にいる、数年前の自分。
親方様に拾われて、そしておいてかれた自分の目。
心配と不安と恐怖と微かな悲しみと憎しみ。
それが入り混じった目立った。
「遅せぇぞ」
「時間ちょうどでござる」
使い慣れていない腕の時計を見れば、約束の時間から針が2分だけ動いていた。
それでも、遅いというのだろうか。
相手をうかがっていると、くっと笑われた。
「そんなにビクつくなあ」
もう手出しなんてしねえよ。
そう言い、まるで証拠でも見せるかのように手ぶらだと手の平をこちらに向けた。
警戒はしていたが怯えていた訳ではないと言い返したかったが、図星だと思われそうなので口を閉じる。
「本当に手出しすんなら、お前がきた瞬間にしかけてる。
今はもう、俺は家光の……じゃねえけど、味方みたいなもんだあ」
すっと、遠い目。
こちらを見ているというのに、見ていない。
不安定だった。
まるで、少し押せば壊れてしまいそうにも見える。
きっと、心は、イタリアにあるのだろう。
「アシは用意できてるかあ?」
「勿論でござる。
なお、親方様は無事本部に辿り着いたという報告も入ったてござる」
「そうかあ」
一歩、こちらへ近づいた。
自然な動作だった。
ほとんど音もたてずこちらに歩いてくる。
目の前でぴたりと止まった。
真意がはかれず見上げれば、身長差を思い知る。
何を食べればこれだけ大きくなれるのか。
「ああ、てめえどっかで聞いたことある口調だと思えば、」
はらりっと、前髪を掻き分けられる。
「家光の後ろに隠れてたガキか」
「……?」
思わず首を傾げた。
彼と初めて会ったのは、親方様の命を受け指輪を運んでいたと時が始めての筈だった。それ以外は、噂か、親方様の言っているのを少し聞いたくらいだった。
それは、彼も同じ筈だった。彼の前で親方様の後ろに隠れたことなど一度もない。
そもそも、親方様の後ろに隠れていた時期など、もう10年程前のことだ。
まったくと言っていいほど、その時彼を見たことはない。見ていれば、こんな印象深い相手を忘れる筈がない。
「何年か前、家光がテュールに会いにきた時いただろ?」
覚えてはいない。
知識に剣帝テュールの単語はあるが、その人の姿は思い出せない。
よっぽど小さい時に会ったのだろうか。
「そんとき、見たんだよ」
いや、考えてみれば会ってないのかもしれない。
そういえば昔、親方様においていかれるのが嫌で泣きついて知らない屋敷までつれていってもらったことがあった。
さすがに、用事があるという部屋まで連れていってはもらえなかったが、適当な場所で遊んでいろと言われた記憶はある。
誰かの息遣いや気配があるのに、がらんっとした誰もいない屋敷だった。
見たのだろうか。
彼は、自分を。
あの、誰もいない屋敷で幼い頃の自分を見たのだろうか。
おいていかれるのが嫌で泣いた自分を、親方様に待っているよう言われて不安な自分を。
「おい、ガキ」
声をかけられてはっとする。
「バジルでござる」
「てめえなんざ、ガキで十分だ」
するりと横を通り抜け、彼は背を向ける。
「家光になんか伝えたいことがありゃあ伝えてやるぞ」
その背中を見ながら、バジルはないっと返した。
「拙者、親方様を信じておりますゆえ」
彼は、笑った。
「そりゃ、そーだ」
それは、自分と似た境遇の彼が見せた些細な笑顔だった。
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